5.



 二日目の夕方、セラ達はブレイズベルク領主邸へとたどり着いた。その頃にはセラもだいぶドレスに慣れており、弱音を吐くこともほとんどなくなっていた。レアノルトまでは一行の誰しも訪れたことのある地だったが、ブレイズベルクまで来るとリルドシア出身のティルは勿論、セラ達も見覚えのない景色になってくる。自然と皆の目は窓の外に向き、気まずい空気になることもなく時間は過ぎた。道中何事もなかったことについて、ライゼスはとくに信じてない神に感謝した。
 ともあれブレイズベルグ領主の館に到着すると、人のよさそうな初老の男性が出迎えた。
「あの方が領主ですね。一度城で見たことがあります」
「一度しか見てないものをよく覚えていられるな」
「感心している場合ではありませんよ。とにかく作法に気を付けて下さいね、セラ」
 馬車の扉が開くと、領主が「おお!」と歓声を上げる。
「今しがた陛下より書状で事情をうかがいました。ブレイズベルク領を任されております、クルト・ブレイズベルクです。お初にお目にかかりますセリエラ王女」
「セリエラ・ルミエル・レーシェル=ランドエバーです。この度のお招き、母ミルディンに代わり感謝申し上げます」
 差し出されたクルトの手を取り、セラは馬車を降りた。休憩時に練習した成果か、その足取りにとくに危なげはなく、ライゼスとリーゼアがひとまず胸を撫でおろす。次いでリーゼアが、その後にライゼスとティルが馬車を降りた。
「王女親衛隊のリーゼア・レゼクトラです。この度は姫様の警護とお世話で同道致しました。ご同席をお許し願います」
「レゼクトラ……もしやエレフォ殿の?」
「エレフォ・レゼクトラは母ですが……」
「やはりそうでしたか。面影がありますね。いや、エレフォ殿のことはいつも妃殿下とご一緒にいらっしゃいますのでよく存じております。ご子息とご息女がいらっしゃると仰っておりましたが……」
 そう言ってクルトはライゼスに視線を伸ばした。エレフォ譲りの紫の瞳はランドエバーでは珍しい。また姫の婚約者がレゼクトラ家というのも有名な話ではある。
「ライゼス・レゼクトラです。姫の側近を務めております」
「王女の婚約者とお聞きしましたが?」
「え、ええまあ……。本日は私も姫と一緒に出席させて頂きますが、宜しくお願いいたします」
 歯切れの悪い返事を隠すように、ライゼスがそう挨拶をすると、必然的に領主の目は残りの一人へと向いた。彼の視線を受けて、ティルが頭を垂れる。
「ティル・アーシェント=リルドシアと申します。本日は末席を汚させて頂きます」
 リーゼアなどは一瞬誰が喋っているのかわからなかった。口調も声のトーンも優雅な礼も、普段の彼と何一つ違う。
「貴国のお噂はかねがね。噂の姫君に一度お会いしとうございました。貴殿の姉君ならば筆舌に尽くせぬ美しさというのもさもありなんですな」
「滅相もございませんが、ランドエバーのような大国に我が国の名が届いているとは光栄です。姉上もお喜びでしょう」
 差し出された領主の手を握り、ティルは淀みなく述べて微笑んだ。噂の姫君本人の白々しい言葉に、事実を知るセラやライゼスの方が複雑な顔になる。
「ささ、どうぞ中へ。今日列席致しますのは――」
 そんな雑談をしながら、クルトはセラ達を館へと誘った。

 食事会が立食タイプのパーティーだったことは、セラ達にとって幸いだった。はじめから終わりまで席から動けないなどセラにとっては拷問にも等しい。ライゼスにしてもフォローはしやすい。ただ一つ、警護の観点から言えば人が入り乱れる点で厄介だと言えたが、そもそもセラに警護など必要ないのである。例えばこの場の参加者全員から一斉に襲われたところで、彼女は涼しい顔をしてやり過ごすだろう。
「しかし、思ったより人が多いな」
 主催であるブレイズベルク領主クルトが高らかに開催を告げてから、セラの元に挨拶に来る者が絶えない。
「ちゃんと顔を覚えてますか?」
「五人目あたりからもう名前も自信がない」
 小声でのやりとりに、でしょうね、とライゼスは溜息をついた。しかし、あのセラがこのような社交の場で、一応は大きなボロを出すことなく振舞っているのである。これ以上を要求するのは酷というものだろう。彼女に代わり列席者の名前、顔、出自などは自分の頭に入れておかなければと、ライゼスは改めて広間を見回した。そうすると、嫌でもとある人物で視線が止まる。
 今日の出席者で一番目立っているのは、誰が見てもティルだった。そもそもが目立つ容姿だが、彼は積極的に誰よりも多くの人と会話をしている。今もどこぞの貴婦人と談笑の真っ最中だ。喧噪で話の内容全ては聞き取れないが、どうやら流行りのドレスについて盛り上がっているようだった。
「まるで別人だな」
 ライゼスの視線を追って、セラが呟く。
「あっちが素顔かもしれませんよ。僕らより彼の方がこういう場には慣れてるでしょうからね」
 リルドシアの末姫といえば、世界中の人々が一目その姿を見たいと城に詰めかけたという逸話がある。それに比べればどうという人の数ではないだろう。
 邪険にしたことを詫びるべきだろうかとライゼスは渋面になった。助かっているのは事実だが、素直にそれを認めるのも若干の腹立たしさがある。自分でも大人気ない感情だとは思うが。
「私は、ああいうティルは好きじゃない」
 ふとセラが抑揚のない声を上げ、ライゼスは彼女を振り返った。彼女もまた渋面で、グラスをあおった――セラは下戸なので、中身はただの水だが。
 セラへの挨拶の列が一息ついた今となっても、ティルの周りには人が絶えない。元姫ならではの所作の美しさ、豊富な話題に、完璧な美貌と来れば周囲が放っておかないのも当然の事だろう。
「……もしかして嫉妬ですか?」
 幼馴染の予想もしなかった問いかけに、セラは含んだ水を吹きそうになった。
「な、なんでそうなる!?」
「違うならいいですけど。嫌なら本人に言えばいいじゃないですか。僕にはすぐに文句を言う癖に」
「そんなこと…………あるな」
 否定しかけて、セラは途中で答えを翻した。うなだれて、空のグラスを手の中で所在なく弄る。
「……文句など言えないだろ。そうさせてるのは私なのに」
 落ちた言葉に、ライゼスは目を背けた。こんなことはこれからもっと増える――そう言いかけてやめる。言わなくてもセラにだってそれはわかっているはずだ。
「でもそれはお前も同じだな。済まない。お前には甘えてばかりで」
「そんなことはいいんです。そうじゃなくて――」
 謝って欲しかったわけではない。声を荒げかけてライゼスは口を噤んだ。調子が狂う。さっさとこの時間が過ぎ去ってくれないかなどと詮無いことを考える思考は、リーゼアの声に遮られた。
「あの、わたしは職務中ですので」
 困ったような妹の声にそちらを見ると、リーゼアが酒を勧められてあたふたしている。慌ててライゼスは彼女の方に足を向けた。リーゼアは匂いだけで酔うほど極端に酒に弱く、おまけに酷い酒乱だ。
「すみません。彼女は姫の護衛騎士ですのでお酒は遠慮させて下さい」
「おお、それはすみませんでした。では姫様はいかがですかな? ライゼス様も」
 ライゼスについてきていたセラのグラスに目を止め、リーゼアに酒を勧めていた貴族がボトルを掲げる。
「いえ、私たちは――」
 笑いかけられて、ライゼスは言葉を濁した。セラは酒が飲めないし、ライゼスもそれほど強くない――というより弱い。しかし折角勧められたものを全員断るというのも気まずいものだ。ライゼスが自分だけでも受けるか否か悩んでいる間に、セラが自分のグラスを差し出していた。
「私で良ければ」
 気まずい思いをしていたのはセラも同じだった。微笑むセラに、貴族もぱっと顔をほころばせる。
「いえ、僕が――」
 ライゼスがそれを遮る前に、白い手がセラの手からグラスを取っていた。
「姫様はお酒に弱くあられます。私でご容赦を」
 ティルがセラから取り上げたグラスをライゼスに押し付ける。一瞬だけ交わった視線が「お前も飲むな」と釘を刺してくる。仏頂面になりそうなのを堪えながら、ライゼスはグラスを受け取った。礼を言わねばならないことが増えてしまった。
「年代物のレグラスワインですね。向こうの大陸ではなかなかお目に掛かれないものです」
「ご存知とは光栄です。仰る通り、我が街の誇る銘酒でしてな」
 空気を悪くすることなく、ティルは実に上手く話を盛り上げてその場を繋ぐ。ライゼスはほっとしたが、セラは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「セラ、顔」
 ライゼスに肩を叩かれて、セラは表情を取り繕った。
「あ……うん。私も飲めるようになっておかないといけないな」
「それを言われると僕も耳が痛いですが……こればっかりは体質的なものですからね」
 リーゼアなどやはり匂いだけでやられたのか頭を押さえている。グラスをセラに返し、ライゼスは嘆息した。