九人の王子 3


 彼が視界に入った瞬間、ひしめく人波は、セラの視界から消えた。双眸に映るのは今や、彼と、その彼が携えた刀の長さから推し量れる彼の間合いのみ――
 まるで自分も同じだと言わんばかりに、ラディアスはセラの間合いの外で立ち止まった。
 ――否。
(私の間合いではない。あれは――)
 ティルが一歩踏み込めば、刀が相手に届くであろう位置。即ち、ティルの間合いギリギリの位置だった。当然、ティルも気付いているだろう。だがティルはそんなことを億尾にも出さず、戦いなどとは縁のない姫の顔で、穏やかな声を上げた。
「ラディアス兄様、公務お疲れ様でございます」
 ローブの裾をつまんで、優雅に一礼する。
「当てが外れたな、ティルフィア」
「ええ。折角の留学のお話でしたのに、船に乗れなくて困っております」
 ラディアスの言葉は含みを持っていたが、ティルは微笑と共に気付かない振りをした。見事なポーカーフェイスだが、意味はなかったらしい。ティルがそしらぬ振りを続けるのを見るや、ラディアスは単刀直入に切り返してきた。
「お前は聡い。これがただの留学でないことなど気付いているだろう。そして、己の身の危うさもな」
「ではお兄様も、わたくしを討ちに来られたのですか?」
 はぐらかせないと悟るやいなや、ティルも何も知らない姫を演じるのは直ぐにやめた。率直に問うと、ラディアスはつまらなそうに吐き捨てた。
「愚問だ」
 微笑と無表情の違いはあれど、表情を動かさないことにかけては、互いに同じようなものだった。だが、その感情の動かない鉄仮面のような男から、何の前触れなく殺気が膨れ上がったとき。
 反射的にセラは動いていた。忠告を忘れていたわけではない。ティルが常にこちらを制するような気配を送っていたのにも気付いていた。それでもセラは動いていた。
 ただ、ティルを庇うようにしてティルの前に進み出ただけの、僅かな動き。剣の柄に右手をかけて、だがまだ抜いてはいない。ラディアスも依然殺気を発しながら、微動だにしない。
    一触即発。その、極度の緊張を強いられる状況で、おそらく自分より強いであろう相手と対峙して、だがセラは畏怖してはいなかった。
「……良い眼をしている。威勢が良いのも結構だ。だが、それでは早死にすると忠告しておこう。異国の騎士よ」
 初めて、ラディアスの黒い双眸がはっきりとセラを捉える。まだ、彼は動かない。視線をセラへと移しただけだ。殺気だけでは、人を殺すことはできない。だが、この男ならそれが成せるのではないかと錯覚しそうなほど、鋭いプレッシャーを感じる。それでもセラは怯まなかった。
「では貴方は、死を恐れて王命を放棄すると?」
 静かに答えると、それに応じたかのように、殺気は綺麗に消えた。
「愚問だな。いや、愚かしいことを言ったのは私の方だったようだ」
 ラディアスの表情が、ほんの僅かに揺れた。セラにはわからなかっただろうが、笑ったのだとティルにはわかった。ほっと息をつくと同時に、珍しいことだと感心する。
「最初に愚問だと言ったのは、私は王命によってのみ動くからだ、ティルフィア。父上が望まぬ限り、私がお前に刃を向けることはないだろう」
「それを聞いて安心しましたわ。わたくしもラディアス兄様とは戦いたくないですもの」
「そうか。だが私はお前を討ちたいと思っている」
 母が違い、歳が遠いとはいえ、実の兄が口にするにはあまりな言葉にセラは眉をひそめた。だがティルは失望や悲しみを見せるどころか、微笑を消すことすらなかった。
「ええ、そうでしょうね。この国を守るお兄様が、この国の秩序を乱すわたくしを討ちたいと思われるのは、当然のことですわ」
 哀しみを見せたのは、むしろセラの方だった。ティルの微笑は演技かもしれない。だが、彼の、全てを受け入れて笑う蒼天の瞳は演技ではない。当然だとのたまった彼は本当に、当然だと思っているのだろう。それがセラには哀しかった。仮にも肉親であるラディアスはそうではないのだろうか――、感情の無い漆黒の瞳の奥にそれを探ろうとするが、彼は既に背を向けていた。
「海路は諦めることだ。お前の敵は多いぞ」
 漆黒の青年が去っていって、ようやくセラの視界に人ごみが、そして耳には喧騒が戻ってくる。突き刺さるような膨大なプレッシャーが消えた安堵に、セラは長い息を吐いた。その溜め息が重なったのに気付いて隣を見ると、ティルも同様に、深々とため息を吐いていた。重圧を感じていたのは、彼も同じだったのだろう。
「まったく、寿命が縮むよ。セラちゃんは怖いもの知らずだな。俺の忠告聞いてた?」
 顔にかかる銀髪を弄りながら、ティルの言葉は茶化し半分、咎め半分だった。応えるセラは、至って真剣、だがほんの少し苦笑交じりだ。
「聞いていた。だが、殺気を向けられて黙っているような、名ばかりの護衛でもないつもりだ」
 リルドシア騎士団の誘導で、港からは少しずつ人が減っていたし、騒動は少しずつ収まる兆候を見せ始めている。
「――今はそれよりも、港を出よう。船が出ないなら長居しても仕方ない。ラスとも合流しないと」
 セラの言葉に、ティルはころりと表情を変えた。
「俺はむしろ、いない方がいいんだけどな」
 言いつつ、さりげなくセラの手を取る。口説かれているのがわからないセラはきょとんとしたが、だがややって、「ああ」と何かを思いついたように声を上げた。
「もしかして、ラスに過保護にされてる私のことを心配してくれてるのか?」
「は?」
 考えていることと全く違うことを、さも合点がいったというように言われて、ティルは間の抜けた声をあげてしまった。だがセラが勘違いに気が付かないので、ひとまず頷いておく。
「う、うーん、まあね」
 この場は話を合わせただけだが、溺愛されて育ったティルにとって、過保護なライゼスが鼻につくのは事実だ。
「心配してくれてありがとう。確かに、ラスの説教癖にはうんざりすることもあるよ。だけど苦痛だとは思わない」
 セラが口にしたのは、ティルにとって意外な言葉だった。セラの笑顔には苦味すらない。
「父上も他の側近もそうだ。私がこんなだから、いつもうるさいったらないよ。だけど皆私を案じてくれてるし、いざとなったら私の味方になってくれる。今の私があるのは、皆が、ラスがいてくれるからなんだ」
 セラの瞳に翳りはない。ティルはその瞳に羨望を抱いた。
「俺も――俺だって、大事にしてくれてるのには感謝している。だけど――」
 なのにどうして、セラのように翳りなく笑えないのだろうか。セラの不思議そうな視線に気が付き、ティルは慌ててそれを飲み込んだ。
「ティル?」
「いやゴメン、なんでもない。それよりセラちゃんは、ずいぶんあのボーヤを信頼してるんだな。好きなの?」
 突然話題が変わって、セラは一瞬ついていけずに宙を睨んだ。
「ん……? そりゃまあ、家族みたいなものだからな」
「家族かぁ。じゃあまだ俺の入れる隙はあるかな?」
 ティルが、握ったままだった手に力を込めたそのとき。
「……ぅあ熱っ――――ちィ!?」
 目の前、胸のあたりで唐突に光球がスパークし、その熱量が服を焦がして肌の表面を焼く。慌ててティルはセラの手を離すと、ブスブスとくすぶる服をバタバタとはたいた。
「てんめぇ……いいかげんにしろよ、コラ!」
 ティルの怒声を受けて、ライゼスが姿を現す。
「いい加減にしてほしいのはこちらですよ。セラに触るなって言ったでしょう」
 静かな声に限りない怒りを込めて、かざした右手には白い光がまとわりついている。
「人が下手に出てりゃいい気になりやがって!」
「面白いこと言いますね。いつ貴方が下手に出てたって言うんですか?」
「わかった。てめぇとは本気で決着つけた方がいいみたいだな」
「望むところですよ」
 ローブの中に隠した刀にティルが手をかける。同時にライゼスが身構える。そしてセラは、盛大に溜め息をつく。
「目立たないようにしてるって……忘れてるだろ、二人とも……」
 喧騒の中に、セラの疲れた呟きが消えていった。