曖昧だった感覚が体に戻り、両目を開くと視界が移ろう前の景色になっている。それを確認してから、ライゼスはリュナを振り返った。
「……今のは?」
問いの答えはすぐには返ってこなかったが、ライゼスもそれを急かすよりは別のことに気を取られていた。
リュナは眼帯を外していた。小柄な彼女とは不釣り合いな大きくて黒い眼帯は今右目の位置になく、そこには深い碧色の瞳が神秘的な光を湛えて輝いている。
「クラストさんが、お姉様に強力な精神支配をかけてました。あたしの力で、それに干渉したんです。お姉様の悲鳴が聞こえたから……」
元通りに眼帯をつけ直してから、リュナは答えてきた。そして、傍らに見えるルートガルド城を睨みながら仰ぐ。
ライゼスは――セラもティルもだが、リュナの右目について何か尋ねたことはない。だが状況と彼女の言葉で、その右目こそがリュナが厭っている力の源だとライゼスは察した。だから、もう一度問う。
「良かったんですか?」
短い問いを、だがリュナはちゃんと理解したようだった。にこりと笑って、ルートガルド城からこちらへ視線を移す。
「……あたしはこの右目で、今まであまり良いものを見たことがないんです。あたしはこの世界も人も好きだけど、見たくないものばかり見えてしまうから。嫉妬や羨望や憎悪……もっと汚い見たくないものばかり映すから、眼帯を外すのは、ほんとは嫌なんです。……でも」
リュナはライゼスに手を伸ばした。その指先はまだ何にも触れていないが、まるでそこに何かがあるようにリュナの手が宙を撫でる。
「お姉様の心は、離れててもライゼスさんの傍にいつでもいるんですねぇ。とても真っ直ぐで眩しくて、あったかい気持ちが、この世界にはちゃんとある。この右目が映すのは、嫌なことばかりじゃないって解ったから……だから、良いんです」
「リュナ……」
「行きましょう。お姉様を助けないと」
ふいに笑顔を消して、強い調子でリュナが言う。ライゼスもまたそれに深く頷いた。
しかし、気持ちははやるがセラを奪還する良い手段は未だ浮かばないままだ。まずルートガルド城の中の状況が解らない。正面切って訪れ、セラを出せと言ってルートガルド王家が取り合ってくれる保証はない。だからといって忍び込むのもリスクが高い。何より、クラストがそうやすやすと裏をかかれてくれるとは思えない。とはいえ、リュナはクラストがセラに強力な精神支配を試みていると言った。彼もそろそろ動きだす。
(焦るな――考えろ)
焦燥に震える手を握り締め、冷静になるよう努める。考えることに集中して――だがその思考はたやすく割られる。真っ直ぐにこちらに突き進んでくる――殺気に。
「……リュナ! 離れて!!」
咄嗟にライゼスは叫んだ。だが唐突すぎてリュナには反応できないだろう。反射的にリュナを突き飛ばし、その反動で自分は反対側に倒れる。その間を白刃が行き過ぎる。ライゼスは受け身をとってすぐ起き上がり身構えるが、リュナはそのまま尻もちをつく。それを予期して少しだけライゼスは焦ったが、その殺気は迷わずこちらに向かってきた。ひとまずはリュナの心配をする必要はないだろう。目の前のことに集中して、その刀の軌跡だけを追う。
「ティルちゃん!?」
その襲撃と襲撃者をようやくリュナが理解したのだろう。彼女の叫びを意識の外で聞きながら、ライゼスはその鋭利な太刀筋を見極めようとした。だがそれを避けることで精一杯である。とても印を切ったり呪文を詠唱する時間はない。
(――剣があれば)
咄嗟に辺りを探るが、そう都合よく剣が落ちているわけもない。何より――
剣は、もう持たないで――
懇願するセラの声がそれを止める。
「――、くそ!」
剣を探すのは諦め、ライゼスはその他の方法でこの場を切り抜ける模索を始めた。
ガシャン、と派手な音が室内に響く。セラが抜き放った剣がシャンデリアをかすめ、装飾が割れたのだった。
「危ないよ、セリエラ」
「そこを退け!!」
クラストが顔をしかめたが、セラは無視して剣を構えた。こちらに歩み寄ってくるクラストを、本気で斬るつもりで重心を落とす。
「やめなよ。ボクに勝てないのは解っているでしょ? それに、この城でボクを傷つけても、ランドエバーの立場が悪くなるだけだ」
「人を脅して強引に連れてきた者が何を言う!」
「考えてみなよ。浅慮なキミと、ボクと。周囲はどちらの言葉を信じるだろうね? ボクはリスクを覆す自信があるからこそ、この強行策に出てるんだ」
「――父上は、私を信じて下さる筈だ」
依然構えを解かないまま、セラが呟く。少しでも隙があれば躊躇なく踏み込むつもりだったが、彼は隙を見せなかったし動揺もしなかった。
「そう。あくまでもキミが真実を貫こうとすればルートガルドとランドエバーの全面戦争になるね。勝ち目はないけど……別に死ぬのはボクじゃなくて兵士だし。この下らない国が滅びたらボクの計画も頓挫しちゃうけど、まあいいよ。また始めればいいだけだ」
結局動揺して隙ができたのはセラの方だった。だがその隙に、クラストがとくに動きを見せることはなかった。いつでも御せると思っているのだろう。そう悟って、セラは踏み込んだ。かっとしたわけではない。だが見せもしない隙をうかがって手をこまねいていてもどうしようもないと思った結果だった。セラの一撃をクラストが身を捻って避け、調度品が派手な音を立ててセラの剣を受ける。
「落ち着きなよ、セリエラ。簡単なことだ。ボクに力を貸してくれればいい。そうすれば余計な血は流れない。ライゼスもティルフィアも死ななくてすむ。世界ももっと素晴らしくなる。キミにとって悪いことはひとつもない」
だがクラストの余裕の笑顔と声は、次の瞬間凍りついた。ひゅ、と風を切る音と僅かな痛み、そしてハニーブロンドがはらりと数本舞う。
「ああ、私は落ち着いているよクラスト。もう惑わされない」
剣を繰り出した姿勢のまま、言葉の通りセラの声は冷静だった。
「退け、クラスト。私は誰の物にもならないし、誰も失わない」
まっすぐなその瞳に曇りはない。眩しいくらいのそこにある光に、クラストは手を握り締めた。
――あの瞳は穢せない。
嘲笑った言葉が、やけにうるさく頭に響いて、クラストは舌打ちした。思い通りにならないことほど、彼を苛立たせることはなかった。物心ついてから今まで、浅はかな人間はすべて人形の如くに動いたというのに。彼女とて、その一人にすぎない筈だった。綺麗で眩しいものこそ弱いものだ。それが壊れ、曇る瞬間こそ湧き立つような歓喜があるというのに。
「……不愉快だ」
表情を凍らせて、クラストもまた剣を抜く――だが。
「クラスト!」
扉の向こうから呼ぶ声に、クラストはさらに表情をこわばらせた。それは、兄の声だった。