バレンタイン特別編
(2011年2月掲載)
本当に唐突に異世界に呼ばれてしまった俺が、向こうの世界から持ってこれたものは三つだけだった。
ひとつは学ラン。実は特注のセミ短だったんだが、俺が小柄すぎてジャストサイズという悲しい話はおいといて。もうひとつが入学祝いのGショック。正確に日本時間を刻んではいるものの、この世界の時間とは異なるようで今となってはあまり意味はない。そして最後のひとつが――
「咲良、それは何だ?」
俺もたった今存在に気付いたばかりのそれを指し、エドワードが疑問の声を投げてくる。着替え終わった学ランを無造作に丸めている途中でポケットの中から発見したのは、半分残った板チョコだった。異世界に飛ばされた日の朝、コンビニで買ったものだ。『商品入れ変えのため半額』に釣られて買ったものの、予想以上の甘さに胸やけして、放課後までに半分にしかならなかった。しかし、異世界での装備が学ランと時計とチョコとは心もとないにも程がある。
という嘆きはエドワードに言ってもどうしようもないことで、覗きこんでくる彼女に、俺は端的に答えた。
「チョコレート」
「ちょこ……?」
不思議そうに反芻されて、今度は俺が問い返す。
「この世界にはないの?」
「ない。……いや、私が知らぬだけやもしれんが。戦以外のことには疎いものでな」
少し寂しさを色を含んだ声に、だけどなんとなくそれには気付かない振りをしておいた。ふうん、と軽く答えて、エドワードにチョコを差し出す。
「食べてみる?」
「食べ物なのか?」
頷いて見せると、彼女は驚いたようだった。まあ、初めて見るのなら食べ物には見えないかもな。よく考えたらそんなに旨そうな色でもないし。板チョコだけあって、板っぽいし。固いし。
一かけら割って渡すと、エドワードが興味津津にそれをためつすがめつする。でも家族やクラスメイトなど俺の周りの女子はみんな甘いものが大好きだったけど、エドワードはどうにも凛々しすぎて甘いもので喜ぶようにはとても見えなかった。
しかしそんな俺の予想に反し、チョコを一口かじったエドワードは、感激したように顔を紅潮させた。
「旨い!」
「そう? じゃあ全部食っていいよ」
数少ない俺の装備ではあったが、あったところでどうというものでもないし。安さにつられただけで俺も好きなわけじゃないし。そう言うと、彼女は本当に嬉しそうに顔をぱっと輝かせた。
「いいのか?」
無邪気に笑う、そんな笑顔といい、甘いものが好きっていうところといい。そんな一面を見ると、やっぱ女の子なんだなーと思わざるを得ない。あんまり男前なんで忘れそうになるけど、こうして見ると……うん、可愛いかもしれない……。チョコレートを頬張る姿に無意識に見惚れてしまい、そんな自分に気付けば急に気恥かしくなって、彼女に気付かれる前に視線を落とす。だが時計が示す日時が目に入って、俺はちょっと落ちこんでしまった。
「……バレンタインじゃん……」
「? なんだそれは?」
思わず声に出してしまって、またもエドワードが疑問の声を上げる。俺にとってはあまり楽しく説明できる事柄ではないのだが、はぐらかさねばいけないようなことでもないので簡単に説明することにする。
「ええと……なんというか、俺がいた国の行事っつーか……、女の子が意中の男にチョコを渡す日だ」
「逆だな」
容赦ない突っ込みがきた。だから落ち込んだのだというのに。
「咲良も貰っていたのか?」
「……」
思わず沈黙してしまった俺の態度から察して欲しいかったのに、エドワードは不思議そうに俺を見るばかりだった。鈍感なのか、それともわざとやっているのか。
家族からすら、最近は貰ってない。まあ……義理ならなくはないか。でも例によって男として見られないので本命には縁がない。……男として見られないと言えば。
「それどころか俺、振られたばっかなんだよね」
それも、男として見れないんだよねー、という悪気のない軽い言葉と同時に。痛いことを思い出して遠い目をした俺に、エドワードがまた驚いたような顔をした。
「そうなのか? 可愛いのにな、咲良」
まて、それは全くフォローになってない。天然なのか、それともわざとやっているのか。どちらにしろヴァルグランドの英雄恐るべしである。とか思っていると、不意に口の中に甘い味が広がった。
「……?」
「では、私から咲良に」
俺が渡したチョコのひとかけらを、エドワードが俺に食べさせていた。不意を突かれた行動に、顔が熱くなる。でも、失恋の痛みがその熱で溶けた気がした。
まさか、異世界でバレンタインを過ごす日が来るなんて夢にも思わなかったけど……今までのバレンタインで、一番悪くない、なんて。
彼女の笑顔を見ながらそんなことを思った。