扉の向こうで物音がして、まどろみから引き上げられる。
物音といっても些細なもので、いつもの俺なら絶対にその程度では起きない筈だ。なのにどうしようもなく覚醒してしまった理由に気付いて気恥かしくなりながらも、扉が開くのを見てほっとした。ほっとしている自分に気付けば、また恥ずかしくなるのだけれども。
夜明けはまだのようで、黒髪と黒軍服は扉の向こうの暗闇に溶け込んでいる。だけど、部屋の窓から差し込む月明かりが、群青の瞳を照らしていた。
「……おかえり」
何を言っていいか分からず、咄嗟にそんな言葉が出てくる。
ライオネルが倒れてから二日、エドワードは俺の前に姿を見せなかった。二日目に入って復活したライオネルが軍務に戻ったので俺も部屋に戻ったけれど、それからも彼女はなかなか戻ってこなかったのだ。
「ただいま、咲良」
嬉しそうにそう言って笑うと、エドワードは隅っこでうずくまる俺のところにまっすぐ近づき、俺の前でしゃがんだ。
「待っていてくれたのか?」
「……いや、寝てたよ、ちょっと」
「ああ、起こしてしまったのか……、済まない。どうせいなかったのだから、寝室を使えば良いのに」
いないからといって、女の子のベッドを勝手に使えるほど俺は図太くない。けどそんなことを語っても仕方ないので、それよりと俺は話を変えた。
「忙しかったんだろ? エドワードこそ、早く休んだ方が」
「ああ……、だがもう少ししたらまた出る。ライが無理していないか様子を見たいし」
確かにあいつはやせ我慢していそうだ。無理に食事をかきこんで、薬を飲んでいた様子を見るに、とにかく動ければ飛び出していきかねない気配を感じた。だから、申し訳なさそうなエドワードに向かって声を上げる。
「……だったら余計少しでも休んだ方がいいだろ。俺なんかより自分や弟のこと心配しろよ」
乱暴な言い方になってしまったのは、恥ずかしかったからなんだけど。気を悪くしなかったかと心配になるが、目が合った彼女はそれどころかくすくすと笑っていた。
「……何?」
「いや、なんでも……、あ」
笑われてむっとしていると、エドワードは笑うのをやめた。でも俺がむっとしたからやめたのではなく、何かが気になったという感じで、エドワードは立ちあがると窓辺へと歩いていった。そちらを見て、彼女が何を気にしたのかが俺にもわかる。
「少し、しおれてしまったな」
窓辺の一輪ざしには、この前俺が贈ったあの白い花が挿されている。花が好きらしいエドワードは、それをとても大切にしてくれていたのだけれど、いくら世話をしたって切り花だからそう長くは持たない。そんなことは当然エドワードにだって分かっているんだろうけど。
「……そりゃ、いつかは枯れるよ」
「ああ、わかっている」
窓辺で月明かりを受けるエドワードはとても悲しそうで、何故か心臓をぎゅっとつかまれるような息苦しさを感じた。そんな思いに突き動かされるように、反射的に立ちあがった俺を、悲しそうな顔のままエドワードが見る。
「枯れたら、また取ってくるよ」
「外は危険だと言っているだろう。……いいんだ。それに――、これがいいんだ」
子供のようなことを言って、エドワードが曖昧に笑う。どういう意味なのかはかりかねて、何て言っていいのか分からなくなったけれど。代わりに、ふと思いついたことがあった。
「なら、押し花にする?」
「押し花?」
俺の提案をエドワードが反芻する。その様子じゃ知らなそうだな。
「花を保存する方法だよ」
「そんなものがあるのか?」
心底驚いたように目を丸くするエドワードに頷いてみせると、彼女は興味津津といった感じでまた俺の傍まで戻ってきた。
「教えてくれ」
「う、うん。じゃあえっと、とりあえず……何かいらない紙、ある?」
俺の問いに、エドワードはぐるっと部屋を見渡すと、やがてふと一点に目を留め、椅子の上に放り出してあった本を持って戻ってきた。
「って、それって本じゃん。汚れるから、読めなくなるよ」
「いい。もう読まん」
「でも……」
本は大事にと幼稚園で習った俺には抵抗がある。しぶってみせると、エドワードはちょっと考えるように本を見てからそれを置き、今度は机の方に向かって、上に置いてある書類から数枚抜いて戻ってきた。
「それ、重要書類とかじゃないの?」
「本国からのライオネルの召還命令だ」
「……いいの、それ」
「本人が受け取らないものを私が持っていても仕様がなかろう」
苦笑しながらそう言われて、俺も苦笑しながらそれを受け取った。確かにあの超絶シスコンヤローは、拘束して引きずってでも行かない限り、姉から離れることはなさそうだ。
受け取った紙を持って一輪ざしがおいてある窓辺に行き、花を取り出して長すぎる茎を折る。そして紙の上で綺麗に花弁と葉を広げると、紙を折ってそれを挟む。それから、そんな俺の一連の作業をじっと眺めていたエドワードに、俺は重しになるようなものがないか尋ねた。少し考えたエドワードが持ってきたのは結局さっきの本で、今度は俺も黙ってそれを受け取って花の上に乗せる。
「こうすれば花の水分が抜けて腐らないよ。まあ、適当だから綺麗にできるかはわからないけど。普通は栞とかにするんだ」
「適当という割には、随分手慣れていたな」
それは姉ちゃんが前に夏休みの宿題でやってたのを散々手伝わされたからである。
まあそんなことはどうでもいいので曖昧に笑っていると、エドワードはわくわくした子供のような目で重し代わりの本を――いや正確にはその下の花をだろうが、見つめた。
「……本、面白くなかったの?」
なんとなく聞いてみると、エドワードはこちらを見ないまま、答もなかなかくれなかった。その横顔は少し困っているように見えて、質問を撤回しようか悩み始めた頃にようやくエドワードが口を開く。
「恋、とはどういうものなのか、私には解らん」
だが内容は唐突なものだった。聞く限り答には聞こえなかったそれの意味を考えて、ふとその本を恋愛小説と言っていたことを思い出す。
「どういうものって……、今まで誰か好きになったことないのか?」
率直に問うと、エドワードは少し考えるような素振りを見せてから、やはり首を横に振った。
「……わからん。私は戦ばかりしているから、人の感情に麻痺しているのだろう」
「なんだよ、それ」
エドワードが馬鹿なことを言いだすので、俺はつい声を荒げた。だけど、彼女がそんな自虐的なことを言うのは珍しい。というより、今まで自分のことなんて全然言わなかったから。自分のことを話してくれるのは嫌ではないけど、でも自分のことをそんな風に言うのは、よくないと思う。
そんな俺の感情を読みとったように、エドワードは薄く笑った。
「好意を持っているつもりの相手からそう言われてな。だが何も言い返せなかった。だが話に聞いたり本で読んだりするような恋焦がれるという感情は、そんな淡泊なものではない気がするんだ」
そんな彼女の言葉に、苛立ちはますます募った。……なんだそれ。そんなの、相手の方がおかしいじゃないか。
「どう考えても相手が馬鹿だろ。それこそ忘れろよ、そんな奴のこと」
前に励まして貰った言葉と同じようなことを、今度は俺がエドワードに向けていた。どんなつもりだろうと、そんな相手を傷つけるような言葉ほいほい言うやつろくでもないような感じしかしない。
俺だって、エドワードをよく知ってるわけじゃない。それでも、これだけは言える。
「感情が麻痺してるような人が、笑ったり、花を大事にしたりなんかしない」
エドワードは一度ふっと笑みを消したが、またすぐに笑顔に戻った。
「咲良……、ありがとう」
さっきよりもずっと柔らかい笑顔で礼を言われ、照れて顔を背けようとしたのだが、頬に掛かった手がそれを阻む。誰の手かなんて考えるまでもなく、俺の前にはエドワードしかいないわけで。
「……え?」
「ならば、君が忘れさせてくれ」
戸惑う俺を覗きこんで、間近でエドワードがそんなことを囁いて。
「――――ッ!?」
動揺した俺は、咄嗟に離れようとのけぞってバランスを崩し、そのまま後ろに倒れて壁で後頭部を強かに打った挙句、立てかけてあった剣を派手に薙ぎ倒しながらその中に突っ込むことになった。
「咲良!?」
そんな大惨事を見てエドワードが俺の名を叫び、頭を抱える俺の傍に膝をつく。
「済まない、冗談だ。そんなに派手に転ぶとは思わなくて――」
だがその言葉は最初こそ済まなそうだったが、後半どんどん震えていく。そしてとうとう、堪え切れなくなったのだろう。最後におもいきり彼女は吹き出した。
「ふっ、あははははは!」
エドワードは俺をからかってくすくす笑ったり、穏やかに笑ったりすることはよくあるけれど、こんな風に思い切り声を出して笑うところは初めてみた。最初はぽかんとして、でも俺が笑われていることに気付いてちょっとむっとして、だけどそんなものはすぐに消えて。
笑うなよ、って文句を言いながら、最終的にも俺も声を上げて笑っていた。
俺は女顔な上単純馬鹿で、エドワードにからかわれてばかりだけど。それで彼女が楽しんでくれるのなら――笑ってくれるのなら。
女顔で単純馬鹿で良かったなんて思うあたり、俺は本当に単純馬鹿である。