第二話 王家の定め
その日はずっと、気が晴れなかった。
汚れが目立たないのは良いのだが、暗い色というのは気分まで暗くするようだ。エレオノーラはドレスのスカートに目を落とすと、小さく嘆息した。
「ねえさん、続きはまだ?」
そのスカートを引かれて、はっとする。弟のねだるような目を見て、慌ててその髪をくしゃりと撫でた。
「ああ、ごめんなさいね。ライ」
本を読み聞かせている途中だったのを思い出し、不満げな弟に詫びて本を持ち直す。そんな姉の様子を見て、弟はふと眉間の皺を解いた。
「疲れてるの?」
「ううん、そうじゃないわ」
もう一度髪を撫でてから本に目を落とす。だが全く集中できず、文字が頭に入ってこない。エレオノーラは諦めて本を閉じると、不安そうな弟に笑いかけて、違う話題を探した。
「ねえ、ライオネル。ちゃんとお勉強はしている?」
「なんで急に勉強の話するのさ」
「ほら、その言葉使い。また父上に怒られるわよ」
二つ違いの弟であるライオネルは、未だにやんちゃで子どもっぽい。末妹のイザベラの方がしっかりしているくらいだ。だからエレオノーラにとって、ライオネルは凄く歳が離れているように感じてしまう。こうして咎められてむくれる姿を見ていると尚のこと。そんなライオネルは可愛い弟だったが、ハーシェン家の次男であることを考えれば、いつまでも甘やかしていてはいずれ辛い思いをするのは彼だ。
「あのね、ライ。私はあなたの元気で可愛いところ凄く好きだけど、だからこそ貴方が父上に叱られるのを見るのは辛いのよ。ね? 私のことも、姉さんではなく、姉上と呼びなさい」
「……やだ。ねえさんはねえさんだもん……」
「我儘言わないの。ほら、泣かない。男の子はすぐに泣いちゃダメよ」
ずび、と大きく鼻をすすり、両手で一生懸命に両目をこするライオネルを見て、エレオノーラはその涙を拭うのを手伝った。
「もう……、仕方ないわね。二人だけのときは姉さんでもいいから。その代わり、ちゃんと姉さんの言うこと聞くのよ?」
「……うん」
「よし。ライは素直で可愛いわね」
「ホント!?」
そう言って微笑むと、ライオネルは嬉しそうにぱぁっと笑った。今まで泣いていたのはどこへやら、一転して元気になった弟を見て、エレオノーラは目を細めた。
「ええ。そんな風に、元気なライも大好きよ。……まぁ男の子だもんね。勉強ばっかりしているより、元気に走ってた方がいいわよね」
だがそう言うと、ライオネルの表情が沈んだ。ころころ表情が変わるのは今に始まったことではないのだが、理由が気になってライオネルの沈んだ顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「……でもぼく、戦うのは嫌だ。戦なんかしたくない」
その言葉に、父がライオネルの剣術を稚拙だと嘆いていたのを思い出す。そして、ハーシェン家の男は腑抜けばかりだと嘆いていたことも。
「馬鹿ね。ライは戦争なんかしなくていいのよ」
弟の小さな肩に手を回し、優しく抱きしめる。
ライオネルが剣を使うのを苦手とするのは、才能の問題もあるかもしれないが、根が優しいからだと姉は知っている。傷つけることを恐れれば剣は鈍る。兄が、よく苦い顔でそう独白していた。
そんな思いを、この小さな弟にまでさせたくない。
「でも、嫌だなんて誰にも言ってはダメよ」
だが、囁くのは警告でなければいけなかった。
ここヴァルグランドでは、隣国フレンシアとの戦争が百年以上も続いている。打倒フレンシアこそがヴァルグランドの悲願であり、ヴァルグランドを統べるハーシェン家の唯一無二の目的だ。その為に血を流すことを喜びとしても、厭ってはいけない。それがこの家に生まれた定めなのである。
しかし、それでもエレオノーラは弟を戦わせたくなかった。弟が戦を嫌っているなら、その方が嬉しかった。そして、同じくらいに――兄にも戦って欲しくなかった。
表ざたにはされていないが、エドワードの体は病魔に蝕まれている。訓練や剣の稽古など病の身には過酷だろうし、寿命を縮めかねない。ずっと気が晴れないのもその所為だった。酷く咳こみながら剣を持って立ちあがる兄の姿が頭から離れず、胸が苦しかった。
「……あ。そうだわ」
しかし妙案を思いつき、唐突にそんな言葉を零す。ライオネルから手を離し、エレオノーラは興奮を抑えるように両手で頬を押さえた。
「いやだ。どうして今まで気付かなかったのかしら」
とても素晴らしいことを考え付いたのだ。今まで思いつかなかったのが不思議で、それが悔やまれるくらい、素晴らしいことを。
「ねえさん?」
「ライ、ごめんね。用事ができちゃった。続きはまた後で」
怪訝そうに呼びかける弟に構わず、立ち上がって部屋の扉に手をかける。だがその途端、扉は押してもないのに突然開いた。
「ねえさん!」
もろにバランスを崩したエレオノーラを見て、ライオネルが顔色を変えて立ち上がった。だが、危惧したような事態は起こらなかった。ぐらりと傾いだ体が受け止められたとき、来訪者の存在とそれが誰であるのかを知る。
「ノックもしないで済まない。早く会いたくて――大丈夫か?」
「レインハルト。戻っていたのね」
体を起そうとするが、やんわりと腕の中に引き戻される。それにさりげなく抵抗を示しながら、エレオノーラは幼馴染の青年を見上げた。
「ああ、ついさっきな」
「ローデルフィールはどうだった?」
「王都よりずっと華やかで活気がある。君にも見せたかったよ――そうだ、渡したいものがあるんだが」
ふとレインハルトの視線が外れ、エレオノーラがその先を追うと、毛を逆立てた猫のようにレインハルトを威嚇しているライオネルと目があった。
「……明日、私がエンズレイ家に伺います。戻ったばかりで疲れているでしょう? 今日は休んだ方がいいわ」
見つめる先で、レインハルトの整った顔が不満そうに歪む。だがすぐにふっと相好を崩すと、レインハルトは手を離した。
「では、待っているよ」
扉が閉まる音に隠れて、エレオノーラは嘆息した。弟を振り向くと、苦虫をかみつぶしたような顔で唸る。
「ぼく、あいつ嫌いだ」
「ライ……、そんなことを言ってはダメよ。私はいずれエンズレイ家に嫁ぐの。そうしたら、レインハルトはあなたにとっても家族になるのだから」
「どうして?」
その疑問が、エンズレイに嫁ぐ理由か悪口を言ってはいけない理由の方かを計りかねて、一瞬エレオノーラは口ごもった。だが、恐らく両方に対してだろう。
「それがハーシェン家の長女のしきたりだからよ。それと、誰であろうと人のことを悪く言ってはいけないわ」
「ねえさんはそれでいいの? 要するに、好きだから結婚するんじゃないんだろ」
幼い弟の口から出た大人びた質問に、エレオノーラは今度こそ答えを失った。とはいえ、ライオネルはまだ十歳になったばかり。そう深い意味のある質問ではないとわかっているのに、戸惑ってしまう。
「……でも、嫌いじゃないわ。それより急いでるから。あとでね」
早口で言い残し、今度こそ部屋を後にした。