「良かった、綺麗に咲いて」
空になるまで水差しを傾けて、独り言を呟く。水滴が煌く白い花弁を映しこみ、少女は嬉しそうに群青の瞳を細めた。そして大きく息をつく。
今日はよく晴れている。
屋外で体を動かしていると暑いほどで、額には汗が滲んでいた。黒い前髪がべたりとはりついて気持ちが悪い。水差しを置いて手で乱暴に顔の汗をこすり、それからふと気がついて両手を見る。
土いじりをしていたので、両手には泥がついていた。
「……やっちゃった」
近くに鏡はないが、今自分の顔がどうなっているかは容易に想像できる。小さく息をついて、少女は水差しを拾うと歩き出した。
「エレオノーラ様!」
だが呼びとめられて、少女は足を止めた。気がつかない振りをしようかとも考えたが、ここまで大きな声で名前を呼ばれて気がつかない人もいないだろう。仕方なく振り向くと、見知った顔の女官が、まあと眉をひそめた。想像していた通りの展開である。
「なんというお顔を」
「言わないで。今洗おうとしていたの」
「一体何をなさっていたのですか」
聞くまでもないだろうに。女官の声に咎めるような色がある時点で、何をしていたかなど分かっているに違いない。だが一応、少女――エレオノーラは持っていた水差しをさらに目に留まるように持ち上げて見せた。
「花の世話」
「そのようなこと、エレオノーラ様がなさらなくても。ああ、お召し物も汚れて」
「あら本当。また怒られてしまうわ。だからドレスって面倒なのよ」
片手でスカートをつまんで嘆くエレオノーラの手から、女官が水差しを取り上げる。
「母上が大事にしていた花だから、私が世話をしたいの」
取り返そうとした手が女官が身を引いたことで空を掻き、エレオノーラがむっと眉根を寄せる。
「とにかくお召変えを」
「……わかったわ。でも少し摘んでいきたいから待って」
「エレオノーラ様」
「兄上にお見せするの。もう汚さないから」
止めようと立ちはだかる女官をひらりとかわし、エレオノーラは軽やかに走りだした。
エレオノーラが花を持って兄の部屋を訪れることができたのは、たっぷり一刻が過ぎてからだった。着替えと小言の間に花がしおれるかと本気で危惧したが、どうにかそれは免れることができた。
「見て、エドワード兄上。綺麗に咲いたでしょう」
「……朝と服が違うな、エル」
だが兄から返ってきたのは花の感想ではなかった。
「朝は白かった」
目を細めて花弁に触れながら、その言葉が花ではなく服を示していることに、気付くのが少し遅れる。
「また汚してしまったのだろう?」
「……ご明察恐れ入ります」
「それを選んだのは汚さないようにか?」
「兄上には敵いません」
「黒もよく似合う」
兄がそう言うと、妹は珍しく照れたように頬を染めてはにかんだ。
そうしていれば可愛らしいのにという言葉は飲み込んで、兄――エドワードは、ベッドに腰掛けたまま手を伸ばして妹の長い黒髪を梳くように撫でた。その、濡れたように艶のある髪といい、色白ではあるが健康的な赤みの差す表情といい。
美女の要件を兼ね備えているに関わらず、多少じゃじゃ馬の気があるこの妹は、その表情も男性のように凛々しかった。少女のしおらしさよりも、少年のような荒削りの逞しさがある。髪を梳く自分の手が病的な白さと細さなのとは正反対で、面差しは良く似ているのに全く似ていないと、そんなことを思ってエドワードは目を細めた。
そんなエドワードの様子を、エレオノーラが怪訝な表情で見上げる。
「兄上?」
「……いや。花をありがとう。活けるものを――」
立ち上がりかけて、だがエドワードの体はすぐにベッドに引き戻されることになった。体を折って激しく咳き込む兄に、慌ててエレオノーラが花を置く。
「兄上!?」
「……だい、じょうぶ……」
荒い息の合間に零れた言葉は、酷く説得力がないと自覚してエドワードは苦笑した。だが口元を拭ってそれを納め、妹へと向き直る。
「済まない、エル。そろそろ稽古の時間だ。行かなければ」
「無理だわ、そんな体で。私、今日はご容赦下さるよう父上に頼んで――」
「大丈夫だ」
踵を返す妹の腕を掴み、さっきよりも強く、有無を言わせぬような声色でエドワードは今にも飛び出して行きそうな妹を止めた。
強い声と、強い瞳に、エレオノーラは仕方なく足を止める。
エドワードは小さく笑った後に剣を取って退室してしまい、エレオノーラは花を活けてから、主のいなくなった部屋を出た。