30.世界と想いと



 右も左も分からない異世界で、俺を支え、助けてくれた人がいる。オーギュス・オードランという老兵はそのうちの一人だ。
 今爺ちゃんが出してきた写真の中にいたのは、俺が知るより少し若いけれども、間違いなくその人だった。
「フレンシアの盾、オーギュス・オードラン」
 呟いたのはエドワードだった。歌うようなその声に、俺と爺ちゃんが顔を上げる。その声を紡ぐエドワード自身も、その表情には驚きの色があった。
「父からよく名は聞いていた。彼が咲良の使いとして私の元に来たときも驚いたが、まさか異邦の者だったとは……」
 呟きながら、エドワードが写真をそっと指先でなぞり、再び爺ちゃんが写真の中のオーギュス爺ちゃんに視線を落とす。
「彼は、そんなに有名だったのかね」
 そんな問いかけを受けて、エドワードは姿勢を正すと、さっきまでの独白とは違い、はっきりした声を上げた。
「私はハーシェン家の人間ですが、その名は父の耳にも届いておりました」
「ハーシェン……、そうか。敵の総大将に名を知られるほどか。ふふ、それはあやつも立派に咲いたものだ」
「しかし、彼のことは私より咲良の方が良く知っているはず」
 そう言ってエドワードが俺の方へ話を振り、爺ちゃんが今度は俺を見上げる。その頃には俺も少しは落ち着きを取り戻し、再びその場に胡坐をかいた。
「……オーギュス爺ちゃんは、ずっと俺の力になってくれて、俺を導いてくれた。でも、俺、爺ちゃんのことは何も知らなかったよ。結局ルゼリアに行くときに別れてそれっきりだ。あんなに世話になったのになんの礼もできなかった」
 爺ちゃんにオーギュス爺ちゃんのことを話してあげたかったが、いざ喋ろうとすれば何も知らないことに気付いた。オーギュス爺ちゃんも俺について何も聞かなかったけれど、それはもしかしたら、全部知っていたからもしれない。だからこそ、リディアーヌと言われていた俺に、唯一彼だけが名前を聞いたのではないかと、そんな風に思えた。
「不思議な縁よのう……」
 俺が感じていたことそのまま吐き出しながら、爺ちゃんは短いあごひげを撫でた。それから、再びエドワードを見る。
「しかし、何故ハーシェン家の人間がこちらの世界へ?」
 爺ちゃんがどのくらい向こうのことを知っているのか分からないが、少なくともハーシェンがヴァルグランドの王族であるのは知っているようだ。そして、知っているからこそ不思議だったのだろう。爺ちゃんがそんな声を上げたので、俺は横から口を挟んだ。
「それは、俺が――」
「咲良」
 連れてきたんだと言う前に、エドワードがそれを止める。俺を見て、その先を制するようにエドワードは小さく首を横に振り、それから爺ちゃんの方に向き直った。
「咲良は長きに渡る憎しみの連鎖から私を救ってくれたのです。彼がいなければ、私は今頃戦場で果てていたでしょう」
「……もしや、貴女は咲良を好いて下さっておるのかの?」
 本人を前にストレートな質問を繰り出す爺ちゃんに、俺は焦って「ぅえ?」と変なうめき声を上げてしまった。けれどそんな俺など蚊帳の外のように爺ちゃんの顔は真剣で、そんな爺ちゃんにエドワードが黙って頷いたものだから、俺は頭まで熱くなって、俯くしかできなかった。
「そうか。なら、酷なことを言うが……」
 でも酷く言い難そうな爺ちゃんの声に、照れている場合ではないと知る。俺が顔を上げると、今度は爺ちゃんが俯いた。
「儂がそうであったように……、本来、関わりのない世界に生きることはできんのだ」
 無情な宣告が、刃のように胸に斬り込んでくる。俺はその痛みに耐えるだけでも精いっぱいなのに、エドワードは毅然と表情を変えず、爺ちゃんを見据えていた。
「教えて下さい。世界の理とは、何なのです?」
 ――世界の理。その言葉を聞いて、爺ちゃんは軽く目を見開いた。爺ちゃんがそんなことまで知っていると思えなかったけれど、思いがけず、爺ちゃんはとつとつと語り出した。
「向こうへと呼ばれたのは真咲の方で、儂は巻き込まれただけだった。これはあくまで真咲を呼んだ術師の見解だが、この世界と向こう、あるいはその他に存在する無数の別世界とは本来なんの繋がりもないのだそうだ。この世界の言葉で言うなら、並行世界(パラレルワールド)というのが一番近い印象だった。本来、肉体だけでなく、魂すらもひとつの世界の中で循環する。異なる世界同士は互いに干渉し合わない。それを『世界の理』と、術師は言っていた」
 世界の理。俺を呼んだ人……、フレンシアの聖少女リディアーヌは、俺に何も教えてはくれなかった。けれど、彼女もその言葉は口にしていた。俺を呼んだのは世界の理を歪めることで、こちらの世界へ帰ることがあるべき姿なのだと。
「その、世界の理を歪める術師の力とは、一体何なのでしょう」
「想い、だそうだよ」
 エドワードの疑問に、爺ちゃんはまた間を置かずに返答する。
「世界の理を歪めるたった一つの要素が、『強い想い』だそうだ。あるとき、強い想いを宿した魂が世界の理の外へ出てしまった。それが世界の綻びの始まりだった。その世界への憎しみか、はたまた知らぬ世界への憧れか……それとも全く関係ないものか。それはわからないが、別の世界の魂が根付いたことによって捩じれが生じた。魂は本来ひとつの筈なのに、世界同士に時間の関わりがないため、点だけを見ると同じ魂の者が世界に跨って存在することになってしまった」
「ちょ、ちょっと待って。ストップ。意味がわからないんだけど……」
 理解がおいつかなくなって、ついに俺は爺ちゃんの話にストップをかけてしまった。でも、理解に苦しんでいたのはエドワードも同じのようで、俺が遮ったことにどことなくほっとした顔をしていた。
 爺ちゃんはふむ、と考え込んだあと立ち上がり、台所の方から湯のみを二つ持ってきた。
「つまり、召喚とは……、仮に、これが誰かの前世だとしよう」
 そのうちのひとつを、ことりとテーブルの上に置く。
「そして、前世が死に、仮に魂が世界を越えて違う世界に来たとする」
 話しながら爺ちゃんはテーブルの上の湯のみを移動させ、淵まで来ると「死ぬ」という言葉と連動させて伏せた。そして、もうひとつの湯のみを畳の上に置く。
「死んで新しい世界に来た筈なのに、両世界に時間の関わりがないため、こちらの新しい魂は生きていた頃の前世を呼びよせることができる。これが召喚の仕組みだ」
 今度はテーブルの上の伏せてあった湯のみを起こし、来た道を後退させた後に、一気に畳みの上まで移動させる。
「わ、わかったような……わからないような……」
「つまり、魂が別の世界に転生すると、生き死にに関わらず二世界間に存在することになるんですね」
「厳密には違うのだろうが、まあ儂もそう言う風にとらえておるよ。一見循環しているようでいて歪なのだと術師は言っていた。だが、呼び寄せるときに周囲を巻き込んでしまうことまでは知らなかったようで、儂を見て驚いていたよ」
 湯のみを二つともテーブルの上に戻し、まるでそのときのことを思い出すように焦点の合わない目で湯のみをみながら、爺ちゃんは言葉を続ける。
「ただ世界の方も体裁を守ろうとはしているようでな。その世界に関わりのない魂の肉体は受け入れられず、同じ魂の肉体が二つ同時には存在できない。これも世界の理だ。だが後者はけして許されることはないが、前者は儂やお嬢さんのように、まれに起こりえてしまう。そんなとき、世界はそれを弾き出そうとする」
「じゃあ、なんでエドワードは今この世界にいることができるんだ?」
「……どうだろうな。儂が知るのもそのくらいだ」
 そう言うと、話は終わりとばかりに爺ちゃんは立ち上がり、片手で顔を覆って俯いた。
「礼を言う、咲良、お嬢さん。あのあと真咲がどうなったか、それだけでも知ることができて良かった」
「あ、こちらこそありがとう。エドワードの、学校の件」
 俺達も立ち上がり、帰り支度をしているところに声をかけられ、危うく忘れかけていた当初の目的を思い出す。するとじいちゃんは手を外し、俺に含みのある視線を向けてきた。
「咲良」
「……?」
 俺だけを呼んだ爺ちゃんに、エドワードが察して気を遣ったのか、軽く頭を下げ先に道場の方へと去っていく。
 それを見届けるなり、爺ちゃんの厳しい声が空気を震わせた。
「咲良。あのお嬢さんがこちらに存在しているのは、お前の強い想いが力となって縛っているからではないのか」
 ……それは、言われなくてもなんとなく想像がついていたことだった。
 エドワードを浚おうとした光、それを俺が消したあの夜。世界の理を歪めてでも、俺は彼女をこの世界に止めることを願った。その結果、俺は本当に世界の理を歪めてしまったのだ。
「だとしたら、咲良。お前に言っておかねばならないことがある」
「俺も、爺ちゃんに聞いておきたいことがあるよ」
 依然厳しいままの爺ちゃんの声に、でも俺は、いつもの調子のままで声を上げた。もう痛みは引いていたから、笑って爺ちゃんを振り返る。

「オーギュス爺ちゃん……、真咲サンに、伝えて欲しいことってある?」