20.一触即発



 エドワードの自己紹介に、「え」と先輩が戸惑いの声を上げる。
 そして俺はといえば、先輩以上に戸惑っていた。
 エレオノーラはエドワードの本名だ。でもその必要がなくなってからも、エドワードは本名を名乗ることはなかったし、エレオノーラと呼ぶことを俺にすら許してくれなかったのに。
「女の子……?」
 どうして、と疑問がぐるぐる頭を回る中、問われて俺は我に返ると、先輩に対して何度も縦に首を振った。先輩もしばらくぽかんとしていたけれど、突然はっとしたようにエドワードに頭を下げる。
「あ、ごめんなさい。私、失礼なことを……」
「構いません。でもエドワードと呼んで下さい。皆そう呼ぶので」
 淡々とした声でそう言ってから、エドワードは下ろした髪をまとめ、元通り帽子の中に仕舞った。
「ああ……もしかして、ホームステイしてるって子? 楓から聞いたわ」
 先輩にそう言われて、俺は再び頷いた。
 ご近所さんにはそういうことにしている。幸い父さんは仕事の関係上向こうの友人が多いので、さほど不自然なこともなく理解されている。
 とはいえそれも、ずっと通用するわけではないのだけれど。
 それでエドワードについて納得したらしい先輩は、今度は俺の道着に視線を当てた。
「道場行くの?」
「あ、はい」
「私も行く所だったの。一緒に行っていいかな?」
 最後の問いかけはエドワードに対してのもので、再び先輩がエドワードを見る。
「……ええ、勿論」
 エドワードが短くそう答えたので、俺達は三人で、道場に向かって歩き出した。

 先輩は、他県にある剣道の強豪校に推薦で進学している。
 いつ帰ってきたのかと聞いたら、大会が終わったので昨日帰ってきたと話してくれた。大学は夏休みが長いので九月一杯はこっちにいるらしい。
 そんな話が終わってしまえばとたんに場は静まり返り、道場に着くまで俺は気まずい時間を過ごすことになった。なので道場が見えてきたときは、まるで天国の門が見えたような気がしていた。……それくらい、なんか気まずかった。
「じゃあ、俺は合気の方に行くんで……」
 剣道場は合気道の道場の裏手にある。先輩が用があるのはそっちだろうからそう言って別れようとしたのだが、振ろうとした手は先輩に掴まれた。
「剣道も見ていったらいいじゃない。あれでしょ? 異文化交流でしょ?」
 う、うーん……違うけど、違わなくもないような気もしなくもない。
 その間にも強引に引っ張られ……というか、ほぼ引きずって行かれる。家にいても学校にいても異世界にいても、俺の選択権というものは基本的に存在しないようだ。
 でもエドワードが着いてくるのを確認したら、まぁ剣道を見ていってもいいかという気になった。剣で戦っていたエドワードなら、そちらの方がなじみやすいかもしれない。
 予想に違わず、剣道場に着いたとたん、エドワードの目の色が変わったのが傍目にも解った。
 多分エドワードは、戦うこと自体は好きなんじゃないかって気がする。戦争が嫌いなだけで。
 よく見たいのだろう、帽子を取って食い入るように稽古を見ているエドワードはどことなく楽しそうだし、先輩は防具を取りに行ってしまったので、俺はようやくほっとできた。
 絶えまなく響く鋭い掛け声と、床を叩く激しい踏み込みの音、そして防具を打つ竹刀の心地よい音が懐かしい。
 俺も剣道は嫌いじゃなかった。
 嫌いじゃないけど、勝てないから面白くなかった。今思えば酷く子供じみた理由でやめたものだ。
「……楽しい?」
 そんな情けない思い出を誤魔化すように、俺はエドワードに声をかけた。
 彼女は少年みたいなキラキラした目で俺を振り返って、ああ、と首を縦に振る。
「大体決まりごと(ルール)は解った。私もやってみたい」
「え、ええ?」
 この短時間で?
 そう思って疑わしげな声を上げる俺に、エドワードが腰に手をあて、得意げな顔で俺を見る。
「急所を叩けばいいという遊戯だろう?」
 エドワードが自分の頭と胴、それから小手を差して、簡潔に問いかけてくる。確かに、超簡潔に説明すればそうなるけど……。
 まぁ、やってみたいというなら体験は受け付けてる筈だ。でもそれを考えてふと俺は思いとどまった。
 エドワードのことだ。いくら他流といっても、剣を使う競技には無茶苦茶長けているはずだ。変に悪目立ちしてしまうのではないか。そう心配して止めようとしたまさにその時。
「お遊戯とは言ってくれるわね」
 明らかに気分を害した先輩の声に、俺は片手で顔を覆った。
 適当にしかやってなかった俺と違って、先輩は昔から剣道大好き、剣道一筋の人間だ。
 エドワードは決して悪気があって遊びと言ったんじゃない。エドワードの日本語はいまやほぼ完璧だが、さすがに競技と遊戯(ゲーム)のニュアンスの違いまでは理解していないだろう。普段俺と話すときエドワードは日本語を使わないのに、外だから気を遣ったのか。完全にそれが裏目に出た。
「なら、やってみる? そんなに簡単じゃないわよ」
 まるで挑発するような声色に顔を上げると、防具をまとった先輩が、敵意たっぷりにエドワードに竹刀を突きつけている。
「ちょっと待って下さい、先輩。エドワードは別に、悪気があって遊びって言ったわけじゃないですよ。それに……」
 さすがに先輩でもエドワードに勝てるとは思えない。でも今日初めて剣道をやるような人に負ければ、きっと先輩のプライドは傷つくだろう。
 とっさに俺は間に入ったが、エドワードに肩をぐいと掴まれて押しのけられた。
「是非」
 エドワードが涼しい笑みでそう答え、俺はなんだか胃が痛くなってきた。