14.雨降って犬は啼く



 家を飛び出して、俺はとにかく走った。無我夢中で走った。全力疾走した。
 何も考えたくなくて走ったけれど、そうしていたら思い出してしまった。
 異世界へと呼ばれたあの日、聖少女だと言われ戦争させられそうになって、俺は砦を逃げ出し今みたいに走っていた。でも考えなしに飛び出してしまって、どこへ行けばいいのか、これからどうすればいいのかわからなくて途方に暮れた。

 そんな俺に手を差し伸べてくれたのが――エドワードだった。

「――ッ、くそッ!」
 疲れたわけでもないのに足がもう動かない。俺はその場に膝を着くと、毒づきながら力任せに地面を殴った。当然ながら舗装された道路に勝てるわけもなく、血まみれの手の甲がじんじん痛む。
 何やってるんだろう、俺。
「何やってんの、咲ちゃん」
 俺の心の声が現実に聞こえてきて、俺は慌てて立ち上がった。
「せ、先輩……」
 律華先輩だった。
 急に頭が冷えてみれば、めちゃくちゃ恥ずかしくなった。全力で走ってきていきなり地面を殴りつけるとか、いつの時代の青春ドラマだ。見られていたことを知って、俺は羞恥で顔が上がらなくなった。
 どうやら無意識に自分のランニングコースを走ってきたらしい。俺はわざわざ先輩んちの近くをコースに設定していたりしたわけで、これでは先輩と鉢合わせても無理はない。
「え、えーと……、アスファルトに戦いを挑んでました」
「ふーん。で、勝てた?」
「いえ、負けました」
「だろうね」
 突っ込んでくれないので仕方なくボケ倒す。けど目撃者が先輩だけだったのは不幸中の幸いだろう。お蔭で頭も冷えた。
 けど冷えたらエドワードが心配になった。俺を追い掛けて迷子になっていないかと焦ったけど、俺がエドワードを振りきれるとは思えないし追い掛けてるなら追いついているだろう。それに、迷子になって困っているエドワードなんて想像できない。俺じゃないんだから、彼女は短絡的な行動は取らないだろう。それは分かっているんだけど。
「それ、手当てしようか? うち、すぐそこだし」
「ありがとうございます。でも大したことないですから」
「咲ちゃんてしょっちゅう怪我してるよね。いつも負けてるし」
 先輩の言葉がぐっさり刺さった。
 確かに俺は負け試合も怪我も多い。……でも、俺の怪我なんて怪我のうちじゃない。

 いつも勝っていたって、傷だらけの人もいる。

「寄っていきなよ。今家誰もいないし、気を遣わなくていいよ?」
「いえ……」
 帰ります、と言いかけてふと気になった。誰もいない家に男を誘うってどうなんだろう。いや、男だと思われてないのは知ってるけどさ。
「別に誰もいないからって何もしないよー」
 逆だし。
 笑う先輩を見て、俺は重いため息をついた。でも、もう馬鹿な俺でも解ってる。
 俺がいつも男として見てもらえないのは、女顔だからとか、ましてや女みたいな名前だからとか、きっとそんなことが理由じゃない。
 何をしても中途半端で、ぐだぐだと悩むくせに、結局は楽な方へと流されていく。女々しいなんていう言葉は女の人に失礼だけど、俺には相応しい言葉だろう。
「あの、先輩」
「んー?」
 間延びした声を返してくる先輩に、俺は真っ直ぐに向き直った。
 先輩にとってはあの日のことなんて、些細な日常の一コマに過ぎなかったかもしれない。でも俺にとっては相当なトラウマになっていることに気がついた。
 振られたことがじゃない。振られることも、男として見てもらえないこともわかってた。いくら体を鍛えたところで、そんなの全然意味がないってことも心のどこかで分かっていたんだ。でも自分の弱い面に向き合おうとしないまま、流されていたことを思い知った日。そんな自分が受け入れられる筈がないって痛感した日。
 あのときはそれでもいいやって思えたけれど、今は思えない。全然思えない。
 何度命をかけても、他の何を失っても、失いたくない人がいる。だったら、過去の痛みと向き合うくらい、今の俺にはなんでもない筈だ。
 そして、帰らなきゃ。
 その気持ちを胸に、歯を食いしばって顔を上げる。
「前にも言いましたが、俺、中学校のときから先輩が好きでした。でも、好きっていうより憧れだったんだと思います。俺、昔から中途半端で、弱くて、だから強い先輩に憧れてたんです。だから先輩に勝ちたかった。もし勝てたら告白しようと思ってました。でも一度も勝てなかったのに、卒業するからって理由をつけて流されたんです。すっげぇカッコ悪いですよね。振られて当然です」
 笑って誤魔化そうと思ったけど、うまく笑えなかった。先輩は笑うんじゃないかと思ったけど、先輩も笑わなかった。というか、急にこんなことを言いだした俺をぽかんとして見ていた。無理もないだろう。自分でもらしくないと思う。今までなんでも曖昧に終わらせてきたから。
「あのとき先輩があっさり振ってくれたから、俺は自分の甘えに気が付けました。だから俺、今度こそ強くなります。今までありがとうございました!」
「……咲ちゃん……」
 これで言わなきゃいけないことは言った筈だ。言葉を切った俺に、でも先輩は唖然としたまま俺を呼んだだけだった。本当なら待つべきなんだろうけど、でも俺にはまだしなきゃいけないことがある。
 黙ったままの先輩に一礼して、俺は回れ右をした。

 走って家まで帰り、玄関に飛び込もうとすると、尻尾を振りながらシホウが飛び出してくる。
「シホウ、俺今忙しいから――」
 軽いデジャヴを覚えつつもそう言うが、シホウはズボンの裾に食いついて離してくれない。いつもはそんなことしないのに。何か言いたいのかと足を止めると、シホウは俺を離して自分の小屋の方を振り返った。その視線を追ってようやく気がつく。
「エドワード……」
 気がつかなかったけど、シホウの小屋の前にエドワードがいた。しゃがんでシホウを撫でていたんだろう。片手を宙に浮かせたまま、彼女は一瞬だけこちらを見たけどすぐに目を背ける。
「お前が一緒にいてくれたのか。ありがとう」
 礼を言ってシホウの頭を撫でると、シホウは満足そうに目を細める。駄目な飼い主のフォローをしてくれるなんて、ハチ公もびっくりの名犬だ。
 エドワードは俯いたまま顔を上げてくれない。もしかしたら、今度こそ愛想を尽かされたかもしれない。でも、もう遅いかもしれないけど、それでも言わなきゃいけないことがあるから、俺はエドワードに近づくと、口を開いた。
「ごめん、エドワード。俺、いつも中途半端で、悩んでばっかで、ちっとも強くなれないしちゃんと守ってもあげられないけど……、でも、エドワードが俺のこと必要なくっても、俺はエドワードの傍にいたいんだ。だから、これからも呆れられたり、傷つけたりするかもしれないけど、でも……」
 ちがう。これじゃただの言い訳だ。いつもと何も変わらない。
 エドワードはまだ振り向いてくれない。でも俺は勇気を振り絞って、声を張り上げた。

「俺、エドワードが好きだ! だから、ずっと……、俺とずっと一緒にいて下さい!」

 叫びながら、地面に頭突きしようかという勢いで頭を下げる。走ってきた後ろくに息継ぎもしないで叫んだために、ぜーぜーと息が切れた。
 なかなか答が返ってこなくて不安になるが、考えてみたらかなりの早口だったし、聞き取れなかったのではないだろうか。そう思って恐る恐る顔を上げ、そして俺は絶句した。
「え、あ……」
 こちらを見上げるエドワードの頬には、涙の跡があった。そして、新しい涙がまたその跡を伝って落ちて行く。
 エドワードは泣かない。どんなに辛いことがあっても絶対涙は見せなかった。泣いているのを見たのはただ一度、俺がこの世界に戻されそうになったとき。もう会えないと覚悟した、あのとき。
 激しく動揺して何も言えない俺の目の前で、エドワードが立ち上がって涙を払う。
「……要らぬ男を違う世界まで追いかける奴があるか、馬鹿ッ!」
「ご、ごめんなさい!」
 怒鳴られ、俺は反射的に謝った。その間にもぼろぼろとエドワードが涙を零し、おろおろしていると背後から急にシホウが飛びかかってくる。狼狽していた俺はバランスを崩してつんのめり、その俺を支えようとして、エドワードが手を伸ばす。……でも俺はなんとか自分で踏みとどまって、エドワードを抱き締めた。
 足元でシホウが、わん、と鳴いた。