7.幸せの定義



 起きたら、既に昼を過ぎていた。

 布団を跳ねのけて、ジャージのままで部屋を飛び出す。リビングに飛び込むと、キッチンにいた母さんが呆れた顔でこちらを見た。
「いつまで寝てるの――」
「エドワードは!?」
 さすがにこんな時間まで寝てることはないだろう。だけど姿が見えないことに焦って、俺は母さんの声を遮って叫んでいた。何のことって言われたらどうしようって、答えを待つ時間が気が気でない。そんなもの、実際は数秒でしかないのに。
「とっくに起きてるわよ。服を買いに楓と出かけたわ。楓の服じゃサイズが合わなかったみたい」
 そりゃそうだろうな。姫野家は全体的にみんなちっちゃい。その中でも姉ちゃんは一番ちっちゃい。でもエドワードは――あまり認めたくはないが――俺よりも身長高いから、パジャマみたいなゆったりした服ならともかく、私服は姉ちゃんのじゃ無理だろう。
 とにかく母さんがそう言うのを聞いて、やっと俺はまともに呼吸ができた。そんな俺を見て母さんが苦笑する。それに気付けば、今度は物凄く恥ずかしくなった。これじゃ、余裕がないのが周囲にバレバレだ。
 でも落ちついたら落ちついたで、俺が一緒に行こうと思ってたのにとちょっと残念な気持ちになる。まぁ俺は女の子の服のことなんてわからないから姉ちゃんの方が適任だとは思うけど。
 そんなことを考えられるくらいには余裕も出てきたので、俺は着替える為に部屋へ引き返そうと扉に手をかけた。けれどその前に、母さんに呼びとめられる。
「待ちなさい、咲良。二人が帰ってくる前に話があるの」
 有無を言わさぬ声に、俺は扉に掛けた手を引いた。母さんがダイニングの椅子を引いて座ったので、俺もその向かいに腰を下ろす。
「……何?」
「人が一人生きていくってどれだけ大変か、あなた知ってる?」
 突然の切り出しに、俺は息を飲んだ。
 それは、鋭いけれど酷く遠まわしな言葉だった。それでも、母さんが何が言いたいかはなんとなくわかる。
「……知ってるよ」
「そーお? まだ働いたこともないのに? じゃあ自分の学費いくらか知ってる? 食費は? この家の維持費は? どんな保険に入ってるのとか、どんな福祉を受けてるのかとか、それにはどんな手続きがいるのかとか、受けられなかったらどうなるのかとか、全部知ってるのね?」
「う……」
 何か言い返したかったけれど、何も言えなかった。だって俺は寝て起きてご飯食べて学校行って遊ぶという毎日しか送っていないのだ。母さんの言葉に、それを嫌というほど思い知らされる。
 エドワードが人並みに生きて行くには、いったいどれほどのお金がかかるんだろう。それを考え出したのを見透かしたように、母さんはさらに言葉を続けた。
「お金の問題だけじゃないのよ。エドちゃんには戸籍がないから、あらゆる福祉が受けられない。学校にも行けないし、働くことだって難しい。けどそんなことは、それこそお金さえあればどうにかなるわ。でも、自立することはとても困難よ。あんたは彼女を一生面倒見る覚悟があって連れてきたの?」
 それくらいのことは、俺も少しは考えた。
 それだけじゃない。知らない世界で俺と生きていくより、元の世界に残った方が彼女にとっては幸せだろうって、それだって考えた。
 でも駄目だった。
 頷く俺に、母さんはため息をついた。きっと、俺が何も考えてないって思って呆れているんだろう。
 確かにそうだ。今挙げられたこと意外にも、彼女がこの世界で生きて行くのには沢山の障害があるんだろうと思う。
「ごめん、母さん。俺は世の中のことなんて何も知らない。生きていくのがどんな大変かなんて知りもしないのに誰かの一生に責任持つなんて、到底無理だってわかってる。わかってるけど、それがどれだけ無理なことでも、俺はやってみせるよ」
 わからないくせにデカイことを言う俺を、母さんは笑いこそしなかったけど、難しい顔をして見つめた。
 難しい顔といえば、あっちの世界での友人を思い出す。きっと、誰よりもエドワードの幸せを願っていたあいつの為にも、俺は絶対に後には引けない。
「自分で馬鹿なこと言ってるってわかってるよ。でも、エドワードはずっと命懸けで戦ってたんだ。怪我ばっかりで、だけど国の為とか家族の為とかで、自分のこといつも後回しで……、俺は母さんとか周りの大人のお蔭で今までぬくぬく生きてたからさ、そういうの見てられなかったんだよ。耐えられなかった。幸せになって欲しいんだ」
 うまく言えないけど、何も考えないで連れてきたわけじゃない。それだけは分かってほしくて、俺は懸命に言葉を繋いだ。じっと俺を見る母さんの目は厳しかったけど、俺が言葉を切ると、ふっと母さんはそれを緩めた。
「あなたがそんな風に真っ直ぐで、優しい子に育ってくれたことはとても嬉しいわ。でもね……、幸せの定義は人によって違うの。あなたは、自分の考える幸せを彼女にも押しつけようとしていない?」
 母さんの言葉が、鋭い刃のように胸に刺さった。
 違うって言いたいのに言葉にならない。
 ヴァルグランドを出たあの日から、ずっと俺は、戦いさえなければエドワードは幸せになれると思ってた。
 ――戦いさえなければ。でもそれは、果たして正しかったのだろうか。胸につかえていたその思いが、母さんの言葉で一気に膨れ上がって俺にのしかかる。
 凍りついたような時間は、玄関の扉が開く音によって動き出した。母さんが、小さく息を吐いて立ち上がる。
「ただいま! ねえ見て見て、すっごく可愛いんだよー、羨ましいなぁ身長高いのって! しかもほっそいほっそい!」
 かしましい姉ちゃんの声が家中に響き、玄関まで出迎えに行った母さんが、「ほんとに可愛いわー」と今までとは別人のようなのんびりした声を上げる。でも俺はその場から動けなかった。