5.想定外の試練



「うあああ〜、生き返るーーーー!」
 久方ぶりの風呂に、俺は虚しくもついつい盛大な独り言を上げてしまった。
 向こうでは基本的に水で体を拭くしかなかったのである。まぁ俺は体が綺麗にさえなればそれでいいけど、やっぱり風呂に浸かるのはキモチイイ。
 けど、離れているとエドワードのことが心配になって落ちつかない。姉ちゃんは世話好きだから、任せておいて大丈夫だとは思うけど……、こうしてエドワードが傍にいない状態で日常を過ごしていると、夢だったんじゃないかと思って怖くなる。
 だからといって、片時も離れないってわけにもいかない。向こうでは一緒な部屋で暮らしていたけど、現代日本では未成年の男女が同じ部屋で寝起きするなんてこと、一般的に不道徳だ。教育に悪い。そもそも、できる自信もない。
 今でさえ、この風呂がエドワードが入った後だと思うと……ごほん。
 一人咳払いをして、俺は脱線しかけた思考を強制的に元に戻した。
 できるだけ傍にいると言っても、当分は春休みだからいいとして、学校が始まったら難しくなる。喋ることもままならないエドワードを学校に通わせるのは無理そうだし、そもそも戸籍ないのに通えるかどうかもわからない。いやそれより、健康保険に入ってないのに、病気になったらどうするんだろう。あっちとこっちじゃ環境が全然違うし、いつ体調を崩すかわからない。
 この管理された現代日本で、戸籍もなく、エドワードは生きていけるんだろうか。急にどっと不安が押し寄せてくる。
 でも、そこをどうにかして守り抜くのが俺の役目だ。そう思い直してはみても。  俺がいくらそう思っていても、エドワードはそれを受け入れてくれるんだろうか。一生俺の傍に縛られるような生活になってもいいのだろうか。……もし、俺の傍を離れたいと思っても、この世界ではままならないんじゃないだろうか。
 そこまで考えて、俺は勢い良く風呂から立ち上がった。
 こんなこと、俺一人で考えていたって埒があかない。だから今はとにかく、できるだけ傍にいよう。
 知らない世界での心細さは、俺がいちばんよくわかっているつもりだ。それでも俺が挫けなかったのは、エドワードがずっと傍にいてくれたからだった。今は同じことを彼女に返すくらいしかできないし、思いつかない。

 そんな俺を待ち受けていた最初の試練は――
 長い髪を三つ編みにして、ピンクでフリルなパジャマを着て恥ずかしそうに俯くエドワードだった。

 ■ □ ■

 とりあえずそれは、俺が想定していたどんな試練よりも強大だった。
 別に、なんだ、その、軍服を来て威風堂々としているからエドワードは男らしいのであって、本当は可愛いことなんて自慢じゃないがとっくに知ってる。でもだからって、これはなんか色々駄目だろう。反則だろう。教育に悪いだろう。
 だが家族の手前、俺は必死に平静を取り繕った。繕えてないのはむしろエドワードの方で、これまで全く何にも動じなかった彼女が、ここにきて初めてものすごい戸惑いを見せている。
「あたしのパジャマなんだけどさー、似合うよね? ってわけであたしもお風呂入ってくるからー。上がったらエドちゃんのお布団あたしの部屋に敷くねー」
 また一方的にまくしたてながら、姉ちゃんがリビングを出て行く。今二人にされるのは物凄い困る。母さんもさっきから姿が見えないし、俺はパジャマ姿のエドワードと二人取り残されて、激しくうろたえた。けど、エドワードがあまりにも恥ずかしそうなのを見て少し心配になった。
「エドワード、もし嫌なら言え……ないかもしれないけど。えっと……明日、服、買いに行こうか」
 女の子の服がいくらくらいなのかはよく知らないけど、こつこつ貯めた貯金箱を壊せば少しくらい買えるはず。そうは言っても言葉が通じないから、エドワードは恥ずかしそうに俺を見るばかりだけど。明日店に行けば、きっと理解してもらえるだろう。
 って、もしかしてそれって世間ではデートというのでは……? また思考が脱線しそうになったが、エドワードが声を上げたことによって幸いにも中断された。
「あの……、渡されたので着てみたけれど……、さすがにこれは、私には合わないのではないかと……思う」
 そう言って、エドワードは耐えかねたようにうずくまってしまった。もし嫌だと思っているならこんなこと言うのは悪いのかもしれないけれど……合わないことはないと思う。そんな仕草も含めて、可愛い。むしろ可愛すぎて困る。
 確かにピンクというイメージではないけれど、似合うと思う。俺もその場に座ると、エドワードの前で首を横に振った。
「そんなことないよ。凄く可愛い」
 いつもなら恥ずかしくて言えないが、通じてないのをいいことに、俺は素直に本音を言った。
 俺が声を上げたので、エドワードも顔を上げる。風呂上がりだからか、それとも照れているのか、ほんのり赤くなった頬がまた絶妙に可愛らしい。そもそも好きな女の子なんて何してたって可愛いのに、これはもうなんか、そう、とにかく反則だ。
 色んな意味で、彼女と一緒に暮らしていく自信がなくなった。
「……変、か?」
 そんな風に聞き直されて、俺はぶんぶんと首を横に振った。
「じゃあ、その……、に、似合う、か?」
 赤くなっているのを自覚しながら、何度も頷くと、エドワードはほっとしたように表情を緩めた。
「そ、そうか」
 だ、駄目だ。自宅のリビングだから辛うじて理性を保っているが、こういうのは健全な思春期少年にまったくもってよろしくない。初日から限界を感じかけたが、スリッパの音が聞こえてきて、がっかり半分にほっとする。多分、母さんだ。
「あら、エドちゃん、可愛いじゃない。そうしているとちゃんと女の子ね」
 たくさん箱や本を抱えた母さんが、体でドアを押して入ってくる。それにしても、妙な呼び方が定着したな。これ、エドワード、自分が呼ばれてるってわかってるんだろうか?
 っていうか、エドワードって紹介してしまって良かったのだろうか。亡くなったお兄さんの身代わりで戦っていたからそう名乗っていただけで、エドワードにはエレオノーラという本名がある。こちらでエドワードと名乗る必要なんてないのだから、本名で紹介すれば良かったと今更になって思った。でも、勝手に呼んでいいものか分からないから、今も言えないままだけど。
「で、母さん。それなに?」
 結局言えないまま、俺は母さんが持ってきたものの方に興味が逸れて、聞いてみた。改めてよく見てみると、小さい頃見た記憶がある玩具もある。
「知育玩具よ。とにかく言葉が話せないと始まらないでしょ? エドちゃんが言葉を覚えるのに役に立つかと思って」
 エドワードの前にそれを差し出すと、彼女も興味深そうにしげしげと眺めた。ひとつ箱を開けてみて、平仮名の羅列があるボードを出してみる。スイッチを入れて「あ」の文字を出すと、あ、とスピーカーから発声される。それを見て、エドワードもぴんときたようだった。
「これ……、もしかして、私の為に?」
 頷いてみせると、エドワードは嬉々として母さんを見上げ、だけどもどかしそうに小さく首を振って俺を見る。
「礼を伝えて……、いや、礼を言いたいときにはなんと言えばいい?」
 そう尋ねるエドワードは本当に嬉しそうで。
 俺の答えを聞いて、母さんにありがとうと述べるエドワードのその言葉は、今までの彼女の言葉とは少し違った響きで、俺にもちゃんと届いた。