1.現世への帰還



 俺の名前は姫野咲良、あとちょっとで十七歳。異世界に飛ばされた経験がある以外は、極めて普通の男子高校生である。
 とさらっと言ってみたところで、真ん中に挟んだ言葉のせいで、説得力は極めて皆無だ。異世界に飛ばされたことのある人間はどう考えても普通ではない。
 それでも、俺は本当にごく平凡な高校生だ。まあ、平凡の基準も人によりけりだろうから補足するなら、性別間違われ率百パーセントの名前と顔は非凡と言えばそうかもしれない。でもその他は、成績中の下、部活馬鹿、好きな人はいるけど今は恋愛より遊ぶのに忙しいかなっていう感じの、割とどこにでもいる男子生徒だと思う。
 でも、そう――そんな俺があんまり普通じゃなくなってしまったのは、卒業式の日だった。
 その日俺は、ずっと好きだった先輩が卒業してしまうということで、悪ノリした周囲にたきつけられたのもあってヤケクソで告白した。そして見事に玉砕した。四年間の片思いが思い出に変わり、皆が下校した後も、俺は屋上で一人たそがれていたのだけれど。そうしたら突然すさまじい光に包まれて、気がついたら知らない場所にいたのである。俺が普通でなくなってしまったのはここから。
 その知らない場所は、地球上に存在する場所ではなく、「フレンシア」と「ヴァルグランド」という二つの国が数百年に渡る争いを続けている世界だった。そしてフレンシア側に落とされた俺は「聖少女」と呼ばれ、兵を率いてヴァルグランドと戦うことを要求されてしまう。でもつい今まで普通の学生だった俺にそんなことができるわけがない。そしてそもそも少女でもない。冗談じゃないと逃げ出した俺を助けてくれたのは、皮肉なことにヴァルグランドで英雄と呼ばれる軍人さんだった。そしてこの出会いから全てが始まったのだ。
 結論から言えば、俺は無事地球の日本に帰ってきた。けれど、これで普通の日々に帰ってきたかといえば、そうでもない。
 今俺がいるのは学校の屋上。あの日、俺が異世界に飛ばされた場所と同じ場所。でも目の前には、この世界にいるはずじゃない人がいる。
 俺を助けてくれたヴァルグランドの英雄、エドワード。だけど本当は、英雄として戦わざるをえなかった女の子。

 ――俺が絶対にこの手で守りたいと、そう思う大事な人が。

 彼女の手を引いて、俺はとりあえず教室に向かって進んでいた。すっかり日は暮れてしまって、校舎に人の気配はない。
 もし校門が閉まっていたら、窓から出て行くしかない。けどその前に着替えないと、俺もエドワードも向こうの服のままだ。いくら暗いからといって、コスプレ紛いの格好で二人で歩くのは恥ずかしすぎる。
 浦島状態になっていたらどうしようと心配していたけど、教室にはちゃんと俺の名前があった。異世界に飛ばされたのが卒業式の日だから、もし数日でも過ぎていたならこの教室に俺の名前はないわけだ。だから、俺が向こうに行ってからそんなに時間は過ぎていないはず。
 少なからずほっとしながら、俺は自分のロッカーからジャージを出した。とりあえず彼女にはこれを着てもらうしかない。
「そのままじゃ目立つから、とりあえずそれ着て」
 こんなことなら洗濯しておけばよかったと痛烈に後悔しながら、エドワードにジャージを渡す。さすがに体育とかで使った日は持ち帰って洗濯してもらうけど、三月に入ってから授業もあんまりなくて、掃除でしか着てなかったから置きっぱなしだったのだ。さすがに異臭はしない……と思う、けど。
 でも、廊下に出ようとしたら突然腕を掴まれて、俺は酷く焦ってしまった。
「え、えっと、俺の服が嫌なら、他の……」
 といっても、女子のジャージを勝手に借りたら俺は窃盗犯になってしまう。それも変態のレッテル付きだ。
 どうしようと考えていると、不意に強い調子で名前を呼ばれた。
「咲良」
「な、なに?」
 応えると、彼女は困ったようにこちらをじっと見た。そして迷うように口を開いてまた閉じ、それからようやく声を上げる。
「……着替えればいいのか?」
「え? う、うん」
 だが、勿体をつけた割にはなんてことはない問いで、俺は拍子抜けして頷いた。それを見て、ふっとエドワードは俺から視線を外して腕を離す。
「わかった。少し後ろを向いていてくれ」
「いや、外に出てるよ」
 彼女がそんなことを言うので、俺は少し慌てて扉に手をかけたが、そうするとまたエドワードが俺を掴む。
「――ここにいてくれないか」
 そんな言葉に顔が熱くなる。一瞬からかわれているのかと思った。けれどそれにしてはエドワードは思い詰めたような顔をしていて、それは俺をからかう為の演技などではないように見えた。それで、顔から熱が引く。
「エドワード?」
 腕を掴む手に手を重ねて、そっと呼んでみる。彼女はやはり少し迷っていたが、俺の手に視線をあてて、それからふっと息を吐いた。
「……咲良。君は、私の言葉がわかっているのだな?」
 たけど問いかけられた言葉が咄嗟に理解できず、俺はきょとんとして彼女を見返すしかなかった。
「え……どういう意味?」
 聞き返す俺に彼女が答えたのは、ごく当たり前のことだった。なのに、全く考えもしていなかったことだったのだ。

「わからないんだ。私には君が何を言っているのか、言葉が全くわからない」