外伝5 黄昏に祈る 2


 救けて、そうただ一言を呟いて意識を失った女性を、ディラルドはその日の宿へと連れ帰った。父が渋い顔をしていたのには気付いたが、それもまた仕方ないことだと察した上で、だが女性を放っておくことはできなかった。
 彼はおそらく、彼女を秘宝か守護者と疑っていたのだろう。
 秘宝が人をのっとり、操るという話も最近はよく耳にする。襲ってこなかった以上、守護者の線は薄かったが、秘宝の形は様々だし、前述のような噂もある。それでも父が止めなかったのは、結局のところ父も、無関係かもしれない女性を放置することに良心が病んだのだろう。
 ディラルド親子は、旅から旅の根なし草のため家はなかった。そのため宿を一部屋余分に取り、予定よりも長く名も知らぬ街へと滞在した。その街に医者はおらず、親子にも医術の心得はなかったために、ただ寝かせておくしかできなかったが、幸いにして翌日の昼には彼女はその深紅の瞳を覗かせた。

「ああ、気がついて良かった」
 付き添っていたディラルドが、心底ほっとした声を上げる。意識を取り戻し体を起こした女性は、まだ少女と言って差し支えないが、少女と呼んだら失礼かもしれない、丁度そんな境の年頃だった。そんな若い娘が、何故遺跡に倒れていたのか。それを聞きたいが、まだ彼女はぼうっとして瞳の焦点も合っていない。気は許さぬまま、ディラルドは機を待った。
「おれはディラルド。旅の学者だよ。君は?」
 そんな、当たり障りのない会話から始める。女性はしばらくぼうっとしたまま動かなかったが、やがてこちらに目を向けると、小さいがはっきりとした声を落とした。
「……カレン」
「カレン。……どうしてあの遺跡にいたの?」
 女性を刺激しないように、やんわりとディラルドが切り込む。だが、女性――カレンは、拒否するように首を横に振った。
「言いたくない?」
「いいえ。覚えていないんです。……遺跡って、なんのことですか? ここは?」
「じゃあ、君はどこから来たの。家は?」
「……それも覚えていません」
 それからディラルドはいくつかの質問をしてみたが、まるで埒があかなかった。どれだけ探ろうとしても、彼女の唇は「覚えていない」しか紡がず、進展しない問答を繰り返すうちに彼女はまた眠ってしまった。

「――厄介なものを拾ったな」
 父がぼやくのも無理からぬことだった。正直、ディラルドも同じ思いである。
 それほど余裕のある旅ではない。これ以上滞在を長引かせるのも難しいが、カレンもまた身一つ、金など持ってはいなかったため、放っていくこともまたできかねた。
「どうする、ディラルド」
「連れていくしかないでしょう。身一つの女性です、近くに家があるのではないでしょうか」
 言ってみたものの、遺跡から一番近いこの町に彼女を知るものはなかった。それは、ますます彼女を得体のしれない存在へと変えている。
 だが、少し距離はあるものの、近辺には他にも町と呼べるものは少しある。
 父にそう答えたあと、ディラルドはカレンの部屋の扉を叩いた。出迎えた彼女がふわりと笑う。気がついたあとまた1日眠り、それから彼女はすっかり元気を取り戻していた。
「ディラルド」
「――今日、父と発つことになった。君はどうする?」
 問いかけると、一転カレンの表情が曇る。そんな顔をされれば、余計に置いていくのは良心が痛んだ。
「お邪魔でしょうが、連れて行ってはいただけませんか」
 断ることなどできなかった。ふう、と息を吐いて、彼女の長い黒髪を撫でる。濡れたように艶やかなその髪は、美しいが色自体は珍しいものではない。だがその瞳となると、また別だ。
「君は、変わった瞳の色をしているね」
 そう言うと、彼女は自分の瞼に白い指先を当てた。
「そう……ですか?」
「ずいぶん長く旅をしているが、そんな色の目は初めて見た。力のある者は、瞳に現れるというけれど」
「そうなんですか。でも私は、力なんてありません。魔法さえ、使えないのです」
 それは、今朝がた気付いたばかりの事実だった。衰退傾向にあるといっても、火を起こす程度の簡単な魔法は見よう見まねで子どもできる。だが彼女にはそれさえもできなかった。どんなに必死に印を切っても、精霊が彼女に従うことはなかった。
「魔法が使えないからといって、力がないとは限らない。現代は魔法が衰退してると言われているけど、実際は魔力の性質が変化しているだけなんだ。まあ、これはおれの自説に過ぎないんだけどね」
 理解できなかったのか、カレンは何も答えなかった。だが別に彼女に自分の学説を支持してもらう気などないので、ディラルドはふっと笑っただけだった。
「おれも精霊魔法は使えないんだ」
「――え」
「だけど全く魔法が使えないわけじゃない。色々やってみて、この学説に至った。学会には発表してないから、学説だなんて偉そうには言えないけれどね。学者だけど、もう表舞台からは父さんと一緒にとっくに退いた」
 また、カレンが押し黙る。元学者だったためか、どうもすぐ話が固くなる。いつも父と一緒にいるためそんなことは気にしたことがなかったが、いざ女性の気を引こうとしてみると酷く難しいことに、ディラルドは今更気付いて苦笑した。そして、話を打ち切るために咳払いをひとつする。
「いや。ただ、君の瞳は珍しいから、一緒に旅をしていれば、そのうち君を知るものがどこかで見つかるよ。そしたら忘れていたことも思い出せるだろう。楽しい旅ではないけれど、それで良ければ一緒においで」
 手を差し出すと、カレンは嬉しそうに笑って手を重ねてきた。その手を、ディラルドは優しく握り締めたのだった。