外伝2 蒼天に契る 18


 リアはフィセアに一言二言耳打ちすると、アルフェスとミルディンだけを部屋へ招いた。といっても、リア達ハールミット一家の部屋は未だ夫人が休んでいる為に、ミルディンが使っている部屋だったが。
「……もう解ってるだろうと思うけれど。母さんを人質に取られて、ここしばらく親父は表立って何もできなかったんだ。レジスタンスの頭目である以上軽率な行動はできないから、助けに行くことも白旗を揚げることもできずにいた。ブレイズベルクの方もまた、母さんに何かすればそれこそレジスタンスが一斉蜂起するのが目に見えているから、しばらくは均衡が保たれていたんだ。だけど、もう枷はなくなった」
 そこで一旦言葉を切り、リアが大きく息をつく。2人の表情を確認するようにじっと見つめながら、彼女はゆっくりと言葉を継いだ。
「……ブレイズベルクが、ランドエバーに宣戦布告した」
「!」
 アルフェスが目を細め、ミルディンが息を呑む。
「夜明けと共に、ブレイズベルク兵はランドエバーへ向けて出陣するだろう。だから、あたしたちは今夜蜂起する。その混乱の間に、国境を越えるんだ。そして……ランドエバーへ」
「無茶だ!」
 リアの言葉に、思わずアルフェスが小さく、だが鋭い叫びをあげる。
「レジスタンスがどれほどの規模かは知らないが、仮にもブレイズベルクはいくつもの国を掌握した 軍隊を持つんだ。いくらなんでも無謀すぎる」
「なかなか痛いこと言ってくれるね。確かにその通りだよ」
 容赦ないが的確なアルフェスの言葉を、苦笑しながらもリアは肯定した。だが、
「でも時間稼ぎくらいはできるんじゃないかな?」
 意志を曲げるつもりはないらしい。
 あっけらかんと吐き出す言葉に迷いはない。
「ブレイズベルク領内で大規模な暴動が起きればスティンも黙ってはいないだろうし、それに2人が国に帰ればランドエバーも動けるだろう。あたし達はそれに賭けるだけ」
 まだ何か言いたげなアルフェスに、だがリアはくるりと背を向けると、部屋の扉に手をかけた。そして首だけをこちらに向ける。その表情にはもう、いつもの人懐こい笑顔はなく。
「ここにいる以上、指示には従うって言ったよね? ……あんたたちはレジスタンスじゃないんだ。あたしたちのすることに口出しは無用だし無意味だよ。国境を越えるまでは、あたしたちに従ってもらう」
 突き放すような言い方に、アルフェスもミルディンもそれ以上何も言うことはできなかった。
「……夜更けまで、しっかり休んどきなよ」
 その言葉と、アルフェスとミルディンの2人だけを残して、パタンと扉が閉じられる。
「……どうすればいいのかしら」
 途方にくれたようにミルディンが呟く。それに対してアルフェスは短く息を吐いた。
「リアの計画は、無謀ではありますが。だけど他に選択肢はないでしょう。どの道私達は一刻も早く国に帰らなければならない。だったらまだレジスタンスの準備が整っている今の方がいい」
 一応リアに対して止めてはみたものの、彼にも他に良い選択肢を提示することはできなかった。ミルディンの行方が知れないままでは、ランドエバーも迂闊に軍は出せない。そうこうしているうちに戦況は不利になり、引いてはランドエバー国外にも影響を及ぼすだろう。
 できることならリア達と共に戦ってやりたいが、それをすることによって彼女らを救えるかといえばそうはならない。
「……帰りましょう、姫。それがリア達を救うことにもなる」
「……」
 小さくミルディンは頷き、窓の方へ歩み寄った。
 よく晴れた空には雲ひとつない。
 これほどまでに、目に映るものは平和で穏やかなのに、実際には平穏などどこにもない。
 仮初めの平和は、あっという間に終わって行く。
 いつでも。
 急に、崩れてしまって、この手には残らない。
「………………帰りたくない」
 ぽた、と手の甲に雫が落ちて、ミルディンははっとした。
 自分が泣いていることに気付かなかった。
 今聞こえたのが自分の声だとも気がつかなかった。でも気付いてしまって、蒼ざめる。
(今、わたし、なんて……)
 乱暴に目元を拭って振り向くと、アルフェスが驚きと、悲しみとが入り混じったような複雑な瞳でこちらを見ていて、さらに血の気が引く。
「……忘れて」
 震える手をこめかみに当てて、呟く。
 ――決して口にしてはいけないことを、全ての責任と、王族としての誇りに背くことを、口にしてしまった――
「今の、言葉は……忘れて」
 流されてしまった。
 仮初めの平和に。
 全ての民に背を向けて。
 全ての信頼を裏切って。
 決して許されない道への羨望と憧憬に惑わされた。
「……」
 何か言いかけて口を開くアルフェスの姿が見えて、ぎゅっと目を閉じる。
 彼も自分を信じて剣を振るい続けてきた騎士のひとり。その彼に、こんな言葉を聞かれたくなくて、こんな姿を見せたくなくて、2年間、どんなことがあっても毅然と采配を振るい続けたのに――
「交換条件です」
「……?」
 アルフェスの、思いがけない言葉にぽかんとして顔をあげる。
「……え?」
「さっきの言葉は忘れます。だから、今から私が言うことも、忘れてください」
 哀しげに微笑む彼の言葉を理解する前に、強く抱き寄せられる。
「帰したくない」
 脳の働きが恐ろしく魯鈍になったのかと思う。なんどもその言葉を脳内で反芻して、ようやくその意味を理解する。今度はミルディンが驚いたように彼を見る番だった――
「できるなら――このまま」
「アルフェ」
 思わずその先を止めたのは、彼の声が悲痛だったから。
 きっと、自分が感じたものと同じ、もしかしたらそれ以上の痛みと苦しみを、味わうことになると解ったから――
 自分が、ランドエバーの王族であることに誇りを抱いているのと同じように、彼もきっと、騎士であること――ランドエバーの守護神であることに誇りを抱いている筈だから。どんなに疎ましくても、失えば自分ではなくなってしまう、自分である証。
「帰りましょう。レーシェル近衛総隊長」
「……はい」
 少女の体をそっと離して敬礼する彼に。
 だが今一度、彼女はその胸に顔を埋める。
「だけど……アルフェ。愛しています。今までも今も、これからも、ずっと――」
「ミラ……」
 呼ぶと、彼女は顔を上げた。
 泣いているかと思っていた少女は、極上の笑みをこちらに向けた。
 
「……その言葉だけは、覚えていてもいいですか」

 問いかけに、腕の中の少女は小さく、だけど確かに、肯いた。