平和なときは穏やかに流れて行った。
ガルスは次第留守がちになっていったので、フィセアが母の看病をし、その代わりにミルディンがリアと共に宿を切り盛りするようになっていた。
またガルスの不在によって女所帯になってしまったハールミット家の力仕事や警備全般をアルフェスが受け持ち、リア、フィセア、アルフェス、ミルディンでの共同生活は順調だった。
だがそんな日々が長く続くものではないことも、誰しもが解りきっていたことだった。
いつものように、慌ただしいランチタイムを終えて、「ふぁ〜、疲れたぁっ」、という言葉を伸びと共に吐き出しながら、食堂の椅子にリアがどっかと腰を降ろす。
「今日は格別、お客さん多かったですね」
カウンターの中で洗い物をしながら、ミルディンが声をかける。その手つきはリアのそれに比べれば"慣れたもの"とは言い難かったが、危なっかしさは見られない。
洗い物だけでなく、調理など家事炊事全般、さほどの難なくこなしていくミルディンに、正直リアは驚きを禁じ得なかった。王宮育ちのお姫様に、そんなことができるとは思いもしなかったのだ。
「まさか、女王様に家事仕事ができるとはね」
思わず漏らしたら、ミルディンは少し寂しげに笑った。
「憧れだったの。こういうの」
その表情で、彼女が普通の生活を望んでいる普通の女の子であることが解って、最初はミルディンに宿のことを手伝わせることに気が引けていたリアも、それからは進んでミルディンに仕事を任せるようになっていた。
「洗い物は後でいいよ。一休みしよう、ミラ」
板についてきたミルディンの炊事姿に苦笑しながら、休憩をもちかけるとミルディンがカウンターごしに微笑みを返してくる。
「ええ。じゃあ、今お茶を淹れるわね」
「やった♪ じゃあフィアとアルも呼んでくるよ」
いそいそと2人を探しに行くリアの後姿に微笑みかけながら、ティーポットを手に取る。
最初はアルフェスと少し離れるだけでも、不安と怯えを隠せなかったミルディンだが、今では既に平常を取り戻していた。
恐ろしく、満ち足りて幸福な生活だった。
普通の暮らしができて、そしてそこに想いを寄せる人がいる。
2年前の、仲間との旅もそうだった。死と隣り合わせのこともあったし、世界の命運すらかかっていたその状況では不謹慎だったかもしれないが、信頼できる者たちと最愛の人がいつも傍にいて、幸せだと心から思えた。
あのとき過した時間も、今この瞬間も、決して忘れないだろう。
でも城で待っている者のことを考えると、いつまでもこうしてはいられない――
そして自分を探すアトラスの手がこの町に伸びるもの、もうそろそろだ。
ランドエバーに戻らなければ。
幸せに流されそうになる度、その思いが彼女を押し止める。
「そろそろ、リアに聞いてみた方がいいかもしれない」
ガルスがずっと不在の為、レジスタンスがなんらかの為――おそらく、自分をランドエバーに返すために、動いていることは知れる。だがそれがどのような策であるのか、あとどのくらい時間がかかるのかの詳細は全くわからない。一度リアに問うてみたのだが、「まあ親父に任せとこうよ、何か進展があったらちゃんと言うから」と言われ、それ以来は何も言っていないのだが。
「――手伝いましょうか?」
頭上から降って来た声にはっとする。考え事に没頭するあまり、手が止まっていたことに気付いて、慌てて顔を上げると、アルフェスが少し心配そうにこちらを見ていた。
「あ――ごめんなさい。大丈夫」
慌てて彼に笑顔を見せると、急いで紅茶の葉を選ぶ。
ティーセットの乗ったトレイを食堂のテーブルまで運ぶと、丁度リアとフィセアも席についたところだった。
「わーい。ミラの淹れる紅茶は美味しいから大好き!」
嬉々としてフィセアは椅子に座る。
最初はミルディンに対して意地をはっていたフィセアも、打ち解けるのにさほど時間はかからなかった。今では実の姉よりも、ミルディンに懐いているかもしれない。
「良かった。そう言ってもらえるとわたしも嬉しいわ」
ミルディンもまた、妹ができたようで嬉しいのか、しょっちゅうフィセアの世話を焼いている。
3人姉妹のようだな、とアルフェスが思うことも度々だった。
フィセアの手作りのクッキーを茶請けに、4人がティータイムを楽しんでいた、丁度そのとき。
カラン、とドアの鐘が鳴って、4人の視線が入り口に一斉に集中する。
「こんにちは」
凝視されても何のてらいもなく中に踏み込んできたのは、茶髪をポニーテールにした、幼い少女だった。
「セララ」
名を呼んだのはアルフェスで、セララやセレシアのことを知らないミルディンは不思議そうに首をかしげる。一方リアとフィセアはその顔から一瞬だけ笑みを消し、固い表情で立ち上がった。
その場に流れた緊迫した空気の意味はアルフェスも解らず、黙って見守る中、セララだけが特に表情を動かさず、大きな木箱を重そうに抱えて歩み寄ってくる。
「頼まれてた野菜と果物。支払いは、いつもの通りでいいって」
「ん。ありがと、セララ。じゃあ、これセレシアに……」
リアがカウンターからいくらか紙幣を出して、セララに手渡すと、すぐにセララは立ち去って行った。
見送りもそこそこに、リアが木箱を抱えてカウンターに引っ込んでいく。
「……セララはレジスタンス間の繋ぎなの。セララが来たっていうことは……」
状況の飲み込めなかったアルフェスとミルディンが、そんなフィセアの囁きにはっとする。
一方リアは、箱の中の野菜や果物の合間から一枚の紙切れを見つけ出し、ざっと目を通すとすぐに火にくべた。そして、緊張した面持ちで3人の元に戻ってくる。
「……場所を変えようか」
その表情で、皆が短い平和の終わりを悟った。