9.

 静かに扉を開ける。
 シレアが眠るその部屋の灯かりは落ちているが、カーテンを通して月明かりが部屋の中を優しい光で包んでいた。カーテンを少し開けて空を見上げると、雨の上がった雲間から月が顔を覗かせていた。
 数日振りの月明かりの夜。
 月の周りの夜空はシレアの瞳と同じムーンライトブルー。その優しい色に、リューンは隻眼を細めた。
 そして、優しい笑顔を浮かべたまま、リューンはベッドで眠る少女に視線を落とした。その明るいベージュの髪さえも、今は淡いブルーに塗り変えられている。ベッドの脇に膝をついてその髪を撫でると、まだ少し湿っていた。
「……お兄ちゃん……?」
 髪に触れられたことに気が付いて、シレアがうっすらと目を開けた。リューンは何も答えず、ただ微笑んだ。
「どこに、行ってたの? ラディのところ?」
 やはりリューンは何も答えなかったのだが、シレアは答えを確信しているようだった。蒼を映した蒼い瞳に、涙が溢れて零れ落ちる。
「あたし……ラディを救えると思った。ラディがあたしを必要としてくれてることも嬉しかった。思い上がってたの。……結局、傷つけちゃった。苦しめちゃった」
「――そんなことはないよ」
 リューンはやんわりと否定したのだが、シレアは涙を隠すように手の甲で目をこすると、激しくかぶりを振った。
「でも、好きな人に振り向かれないって、すごく、すごく辛いんだよ。あたしのせいで、ラディはきっと辛い思いをした」
「……でも、人を好きになることは辛いことだけじゃないはずだよ。人を好きになることを知ることは、素晴らしいことじゃないかな」
 諭すように言うリューンに、シレアは涙を拭く手を止めた。
 リューンの言うことは正しい。普段なら、シレアもそう考えられた。だが、ライドリックの泣き顔や、自分の激情が、混ざって渦巻いて胸が落ち着かない今、シレアはどうしても素直になれなかった。
「そんな、綺麗なものだけじゃないよ。お兄ちゃんには、わかんない」
 我知らず、きつい語調でそんなことを言ってしまい、またそのことにシレア自身も驚いていた。
(謝らないと)
 八つ当たりだと、自分でも解っていた。謝罪しようと慌てて起き上がると、リューンもまた立ち上がった。怒っているのではないかとシレアは危惧したが、リューンは身を起こした自分の視点に合わせて、ベッドに腰掛けなおしただけだった。そして、彼には怒った様子も驚いた様子もなかった。いつもの、見慣れた穏やかな笑顔だった。
「わかるよ」
 呆然とするシレアに、リューンはそう答えた。
「……え?」
「愛した者に、省みられない辛さ。傍にいて欲しいと願う人に背を向けられる苦しみ。……ぼくにだってわかるさ。解って、それに耐え切れないからこそ……、ぼくは誰も愛さなかった」
 リューンの笑みに、自嘲が混じる。
「唯一愛したのは家族であるシェラだけだ。彼女とは血で繋がれる。例え離れていても、彼女に愛する者ができても、家族という絆で繋がれる。だから恐れることは何もなかった。……だけど、ぼくが傍にいて、ぼくが幸せにしたいと想う人とは、どう繋がればいい? ぼくにできたのは、失わないよう、最初から手に入れようとしないことだけ。それだけが、ぼくの自分の弱い心を護る術だった」
 淡々と語るリューンは、いつもの兄とは別人のようで、シレアは気圧されたようにただ黙って彼の話を聞いた。相槌を打つことすら、できなかった。それでも、リューンは言葉を続ける。
「だけど……そんなことは、無意味なことだ。それで結局手に入らなかったとき、自分を護れるかといえばそうじゃない。それでショックが減ったからって、哀しみがなくなるわけじゃないんだ。どうせ手に入らなかったなんて自分を慰めたって、虚しいだけだって、痛感した」
「……お兄ちゃん?」
 いつになく饒舌な兄の様子に、シレアはついに戸惑いを隠せなくなった。そんな彼女に、先ほどと同じ自嘲的な笑みを見せ、リューンは立ち上がると窓辺へと歩いた。
「――ぼくは、そういう弱い人間だ。いつだって逃げてばかりいる」
「でも……」
 月明かりに浮かんだリューンの横顔が思いつめて見えたので、シレアは思い切って言葉を挟んだ。ベッドを降りて、リューンのすぐ傍まで歩み寄り、真っ直ぐに彼を見上げて言った。
「でも、皆そうなんじゃないかな。自分が傷ついて平気な人なんていないと思う……。傷つくのが嫌だから好きにならないって気持ちも解るよ。だって、振り向いてもらえないのに想い続けるのは辛いもの……だから諦めようとしたりする。忘れようとしたりする。でもね、お兄ちゃんは1つだけ嘘をついてるよ」
 ふいにいたずらっぽく目を細めて見上げてきたシレアに、リューンは虚を突かれたような表情になった。
「……え」
「愛さなかったっていうのは嘘。好きになる心は、自分では止められないよ。離れることが辛いと感じた時点で、お兄ちゃんの心は愛することを知ってるよ」
 そっとリューンの胸に触れてシレアは微笑んだ。
 その笑顔は、いつも傍にあったもの。何よりも、限りなくいとおしいもの。
 その笑顔を見て、ふいにリューンは笑い出したくなる衝動に駆られた。
(そうか――そうだな)
 答えはそこにあった。考えるより、ずっと簡単で、ずっと単純な形で。
 何かを吹っ切ったような様子のリューンに、だがシレアは反対に、笑みに複雑なものを含ませた。
「だけど、なんだか妬けちゃうな。お兄ちゃんが、そんな風に想ってるひとがいるんだね」
 つい先刻、リューンを諦めきれない自分の気持ちを思い知っただけに、シレアは複雑だったのだ。だがそんなシレアを見て、リューンは可笑しそうに笑った。
「……お前だよ」
 ずっと言えず、自分でも認められなかったことが、こともなげに言えた。
 言えないうちに失ってしまう方がずっと辛いということに、リューンはもう気付いていた。
「ぼくが失いたくないのは、お前だ。……あの雨の夜から、ずっと」
 ジェードグリーンの隻眼に真っ直ぐ見つめられて、だがシレアは何を言われているのかわからずきょとんとした。そんな様子で何も言えないでいるシレアを、リューンは少しためらいがちに、だが優しく抱きしめた。彼の胸の中で、ようやく彼の言った言葉が脳に浸透して、シレアは一気に顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
「ぼくは、弱い人間だ。それに、血まみれだ。こんなぼくが、誰かを幸せにできるわけがないと思ってた。……だけど、それでも幸せにしたいんだ。お前だけは、ぼくが。――やっとそれに気付いた。だから今度こそもう逃げないよ」
 リューンの言葉のひとつひとつが聞こえる度に、シレアは自分に都合のいいような夢を見ている気がしていた。だが、夢にしてはあまりに伝わる体温が温かい。
「……あたしは……お兄ちゃんがいれば、それで幸せ……だよ」
 だから、シレアは震える声を絞り出した。届くことはないと諦めていた想いだから、そう言うのが精一杯だった。
「ありがとう。……だけど」
 逆接で言葉を切って、リューンがシレアから手を離す。思わず不安げな表情になったシレアに、リューンは少し困ったような表情をした。
「今更、遅いかもしれないけど。できれば……兄じゃなくて。ただ、リュカルド・S・リージアとして、お前の傍にいたいんだ」
 その言葉の意味を理解して――困ったような表情をしているリューンに、シレアは泣き笑いの表情になった。
「お兄ちゃんを、ただお兄ちゃんとしてだけ見れたなら――あたしはあの日の記憶なんて、無くしたままでいられたよ」
 泣きながら微笑むシレアを、似た様な表情で、リューンはもう一度抱き寄せ、口付けた。
 月明かりが、優しく2人を包み込んでいた。