8.

 しばらく、時間だけが無為に流れた。
 リューンもライドリックも動かなかった。正確には動けなかった。自分の中で渦巻く感情の波、それらと闘うだけで、どちらも精一杯だったのだ。そうして時間が過ぎる間に、雨は次第に弱まり、じき上がった。だが、そのことすらライドリックにとっては辛いことだった。
 シレアと初めて出会った日、それから短い時間だがシレアと過ごした楽しい時間はずっと雨だった。その雨が上がったことは、彼女との時間が終わったことを示すようで、シレアに見捨てられたようで、ライドリックの心を抉った。
「……感情なんて」
 沈黙を破ったのは、ライドリックの呟きだった。
「こんな思いをするくらいだったら、俺は感情なんていらなかった……ッ」
 雨が上がったところで、日が落ちた時間に光は差さない。今のライドリックの心もそれと同じ暗闇なのだろう。優しい雨は去り、だが救いの光もない。ただ冷たく、昏い。
 吐き捨てるように言ったライドリックを、リューンは哀しげな瞳で見つめた。そして、何か言葉を紡ごうと口を開きかけたが、その前にライドリックが勢いよく立ち上がってそれを遮断した。
「あんたは、記憶を操れるんだろ?」
 眼前で問いかけるライドリックの瞳は、明るい空色をしていた。だがそれなのに、限りのない昏さがある。綺麗な色なのに、少しも輝いてはいなかった。彼の言葉とその瞳の両方に心が痛んで、リューンが何も言い返せずにいると、ライドリックはさらに問いかけを続けた。
「なあ、そうなんだろ? あんたはシレアに記憶を操る魔法をかけたって、シレアがそう言っていたんだ。――だったら、頼む。俺の記憶を消してくれ。俺の中にある、シレアの記憶を、全部」
 つかみかからんばかりの勢いで、ライドリックが懇願する。
「……こんな思いをするくらいなら、せめて忘れたいんだ。感情なんか、忘れたままでいたいんだ……」
 弱々しく呟いたライドリックの両手が、リューンを掴んだ。だが、それはつかみかかるというよりも、縋っていると言う方が正しかった。だが、リューンにはそんなライドリックの姿を、惨めと笑うことはできなかった。失いたくない人に去られる辛さと哀しみが幾ばくのものか、リューンには解っている。
 だがそれでも、彼にはライドリックの願いを叶えることはできなかった。
 目を伏せ、ゆっくりと首を横に振ったリューンを見て、ライドリックの表情には失望が広がった。
「なんで……ッ」
「君がそれを望んでいないから」
 呻いたライドリックに、リューンが穏やかに答える。
「そもそもぼくには、記憶を操る力なんてないんだ。シレアがどういう風に言ったのか解らないが、確かにぼくはシレアの記憶を"作った"ことがある。だけどそれは、そのときシレアが全てを失くしていたからできたことだよ。書き換えたんじゃなく与えただけ。だから彼女が自我を持った瞬間、あっさり崩れてしまった。ぼくの力なんてそれほど脆弱なものなのに、どうして君から無理に記憶を奪うことができる?」
 淡々と語る透明な声に、開かれた深い碧の瞳に、ライドリックは一瞬呑まれかけた。だが、それでものどの奥で言葉を絞った。
「俺は……忘れたいんだ」
「本当に? 君は本当にシレアを忘れてもいいの? それを望んでるの?」
 だがリューンの問いかけると、ライドリックはあっさりと言葉を失った。
「感情は、綺麗なものだけじゃない。楽しいことや嬉しいことがあれば苦しいことや哀しいこともある。幸せなこと以上に、辛さも痛みもある。けれど、それは全てシレアが君に教えたことだ。それを全部捨ててしまっていいの?」
 縋りついた、ライドリックの手から力が抜ける。
「君がシレアと過ごした時間も、彼女に貰った感情も、哀しみに負けて手放してしまうくらい脆いものなの……?」
 ライドリックの手が離れる。だが、彼はもう崩れ落ちたりはしなかった。
 リューンは知っている。ライドリックも、もう知っているのだ。
 哀しみ、涙することで、また笑えることを。
 喜びを知れば、悲しみも知る。それらは全て、シレアが教えてくれたことなのだ。
 ライドリックの空色の瞳に、もう翳りがないことは、暗闇でもはっきりと解った。

 上がらない雨がないのと同様に、明けない夜もない。
 それは哀しみの始まりだ。幸せもまた、続かないことを意味するのだから。

(それでも、人はそこに希望を見る)

 リューンは、後にした公園を、一度だけ振り返った。
 すっかり濃くなった闇の中に、肉眼で少年の姿を捉えることはできない。彼が未だ動かずその場にいるのかは解らなかったが、それでもリューンは、少年が哀しみを乗り越えることを願った。


 リューンが家に帰り着いたのはすっかり遅い時間だったが、それでも家からはまだ明かりがこぼれていた。「ただいま」、扉を開けると、食堂にはエスティの姿があった。
「先に休んでてくれてよかったのに」
 心配そうにこちらを見たエスティに、リューンは顔をほころばせた。とたん、エスティが仏頂面になって目を背ける。
「……あんな血相変えて飛び出されたら、気になって寝つけねぇだろ」
 そっぽを向いて言ったエスティに、リューンは声を抑えて笑った。あからさまに笑うと、この相棒はムキになるのだ。
「おかえりなさい、兄さん」
 そんな2人の間に、穏やかな声が割って入る。2人の話し声を聞いて出てきたのであろう、ラルフィリエルが乾いたタオルと着替えを持って2階から降りてくるところだった。
「ありがとう、シェラ。……シレアは?」
 それらを受け取って礼を述べると、リューンはシレアの安否を問うた。不安げな兄を安心させるように、ラルフィリエルが微笑みを浮かべる。
「少し熱があったけど、大丈夫。今は落ち着いて眠っている」
「……そうか」
 ほっとしたように表情を和ませると、リューンは自分の濡れた髪と体を拭いた。着替えが終わると、それを見計らったかのように、そっぽを向いたままのエスティが声をかけてきた。
「……行ってやれよ。オレ達のことはいいからさ」
「うん」
 帰りを待っていた自分達に気を遣わないようにとの、エスティなりの心遣いだろう。リューンは素直に頷くと、シレアの眠る2階へと向かった。
「……どうした?」
 リューンの姿が見えなくなってしまっても、その方向をくいいるように見つめているラルフィリエルに気付いて、エスティが声をかける。
「――兄さんは、シレア姉さんのことが好きなんだ」
 2階を見上げながら――リューンがいる場所を見つめたままで、ラルフィリエルはぽつりと呟いた。
「みてぇだな」
 ラルフィリエルの視線を追って、エスティは半眼になって笑った。
「寂しいのか?」
 聞くと、ラルフィリエルは複雑な笑みで振り返った。
「少し。……リューンお兄ちゃんは私の全てだったから。だけど、もう私だけのお兄ちゃんじゃない」
 エスティは立ち上がると、慰めるようにラルフィリエルの頭をぽんぽんと叩いた。
「……妬けるね」