9.聖母の告白

　元老院は、王城の東側に位置する。城の東口から出てすぐにそびえる豪奢な建物がそれだ。元老院の重臣達は、ここにそれぞれ自分の部屋が与えられているため、ここで生活している者も多い。元老院の直轄である親衛隊の宿舎もこの棟にあった。
　――その元老院を視界に収めて、アルフェスは浅く息を吐いた。
　初めて城に上がってから十年以上経つが、王家直属の騎士だったため、元老院を訪れるのは実はこれがはじめてだ。
「さて、すんなりと通してくれるものか――」
　それでなくても元老院に嫌われている身だ。その理由は若くして総隊長の地位にいることが気に食わないとか、前王に気に入られていたことに対するやっかみが多いらしく、親の七光りだと陰口を言われているのはしょっちゅう耳に届いた。彼にとってはどうでもいいことではあるが。
　とにかくも元老院に向かって歩みを進めて行き、その門を護る親衛隊の女騎士に声をかける。
「近衛のアルフェスだ。エルフィーナ様に火急の用があるのだが、通してもらえないか」
　だが答えを待てども返ってこず、訝しんで彼女の顔を覗き込む。
　そこで初めて彼は異変に気付いた。
　彼女の瞳は虚空を見つめ、何も映してはいない。はっとして彼女に手をかけようとした刹那に彼女の手が剣へと伸び、咄嗟に後方へ飛び退る。紙一重で、目の前で剣が閃いた。驚嘆するほどの恐るべき速さで。
（――操られている！）
　直感する。ここまでの使い手はエレフォ以外に親衛隊にはいなかった。
　今の一撃だけで、手加減してやりすごすことが不可能であることは解った。だからといって彼女を傷つけるわけにもいかず、剣は抜いたものの、防戦するしか成す術がない。牽制するように振りかざした彼の剣を、だが意外にも女騎士は真っ向から受け止めた。
「！！」
　そのおよそ女のものではない力に、アルフェスの顔に驚愕が走る――だがそれは、すぐに苦悶のそれへと転じた。突如脇腹に激痛が走る。痛みに耐えながら渾身の力で目の前の女騎士を弾き飛ばして振り向くと、もうひとりの親衛隊員の姿が見えた。彼女に刺されたのだと解し、彼女に全く気付かなかったことに舌打ちする。だがそれを悔やんでも詮無い。
「あ……」
　同じく虚ろだった彼女の瞳は、すぐに恐怖とも驚愕ともつかぬものに蝕まれた。霞む視界に、かたかたと小さく震える彼女の姿を写しながら、彼女の手を離れた剣を脇腹から引き抜く。
「くッ」
　溢れた血と痛みに呻きながらも最初に襲ってきた女騎士の方を警戒するが、彼女は弾き飛ばされて倒れたまま気を失っているようだった。もっともそうでなかったらとっくに止めを差されていただろう。激痛に遠のきそうになる意識を必死に繋ぎとめながら、アルフェスはリザレクト・スペルを紡いだ。ここで倒れている暇はない。
「あ、アルフェス様……！　私、何を……」
　完全に正気に戻ったらしく、女騎士は脅えたように震えた。その顔はすっかり血の気が引いて蒼ざめている。そんな彼女を安堵させるように、アルフェスは無理に笑ってみせた。
「心配ない……通らせてもらうよ」
　なんとかそれだけ言うと、放心したように立ち尽くす彼女の前を通り過ぎ、彼は元老院の門に手をかけた。

　本当に駄目だな――と。元老院の回廊を歩きながら、アルフェスは自嘲した。
　操られていたためだろう、全く気配がなかったにせよ、刺されるまで気づかないというのは非常に由々しき事態だ。
　――兄ちゃんが俺の部下なら誉めてやるよ。
　ルオはそう言ったが、実際のところ今の自分は、普通の兵士としても使い物にならないのではないかと思う。ルオの部下だったなら騎士団を追放されるかもしれないな、こんな場合であるのにふとそんなことを考えてアルフェスは苦笑した。
　多量の出血のため、頭は朦朧とし体は重い。
　そんな状態で、彼は見知らぬ元老院の内部を壁を支えに歩いて行った。さっきの親衛隊の女騎士に、エルフィーナの自室だけでも聞いておけばよかったと、そんな後悔と裏腹に――足は迷うことなく動いた。まるで何かにひかれるように。
　何故かは解らない。だが全く無意識に、彼は元老院の最奥の扉に手をかけた。何かに導かれて歩いているという自覚などなかった。ただ彼が感じていたのは、光。懐かしく、温かい――
「しっかりなさいませ。アルフェス様」
　穏やかな声にはっとする。
　気がついた時には、飾り気のない清楚な部屋で膝をついていた。倒れることだけはどうにか免れていたようだ。周りには暖かな光が溢れ、自分を包み込んでいる。リザレクト・スペルの光だ。その向こうに、エレフォと同じ鮮やかなライラックの瞳と、波打つブロンドの女性が見えた。
　そろそろ歳を感じさせ始めた表情は、それを差し引いても充分に美しい。
「……エルフィーナ様……急におしかけて……申し訳ありません」
　和らいで行く痛みと心地良い光に、再び意識が遠くへ行きそうになって慌てて気を引き締める。そんなアルフェスを労わるように見つめながら、エルフィーナは哀惜に満ちた笑みを湛えた。
「よく、来てくださいました」
　微笑みに混じる限りない哀しみに、何故か胸が痛くなる。彼女が病の為にミルディンの世話役をエレフォに委ねたのは、彼が騎士として城にあがってから間もなくのことだった。それ故に、こうして顔をつき合わせて会話をするのはこれが初めてと言ってもいい。
（なのに……何故だろう）
　いつも彼女が傍に在った気がするのは。
　それは彼女がエレフォと良く似ている為であろうか。そう納得するものの、彼女の存在はエレフォよりも身近にさえ感じられた。しかし、今はその理由を突き止めている場合ではない。
「……あの、レガシスという者のことですね？」
　胸の奥の方から押し寄せてくる不思議な感覚を押し止め、アルフェスが口を開きかけたとき、正に彼が問おうとしていたことをエルフィーナは先に口にした。
「はい。あの者がランドエバー王家の血を引くという話は、真なのですか？」
　立ち上がって単刀直入に尋ねる。それも、訊かれることを予測していたのだろう。彼女の表情に浮かんだ哀惜はいっそう強みを増す。その意味がわからなくて、アルフェスは困惑の表情を浮かべたが、エルフィーナは逆に意を決した様に語り出した。

「嘘か真か、と問われれば……恐らくは真でしょう」

　予想だにしなかった答えを彼女は口にし――
　呆然とする彼のアイスグリーンの瞳は、彼女の部屋の真っ白なカーテンが風に翻えるのをただ無感慨に映していた。