4.陰謀

 ひっくり返った椅子を起こして再び着席する頃には、アルフェスはすっかり冷静さを取り戻していた。それを黙って見ているエレフォの表情は相変わらず読み取れず、独白のように呟く。
「……まあ、姫ももう17歳になられる。戦の中で王もお倒れになり、民の不安を考えれば無理もない判断だ」
 それきり宿舎は沈黙に包まれる。
 女騎士の、呆れたような溜め息が聞こえたのはそれからややあってのことだった。
「全く、何を寝惚けているんだか」
「……エレン?」
 静かな宿舎で、向かいに座るアルフェスにすら聞きとれない様な声で独りごちたエレフォの、だが静かな苛立ちを感じて名前を呼ぶ。
 顔を上げたエレフォの瞳は相変わらず厳しい。
「お前は本当にそう思うのか? ヴァールにセルティ兵が駐屯する中で祝言など、そこまで急に王が必要か? 確かに一度は敗退もしたが、前回の戦いで我々は勝利した。民は再び“ランドエバーの守護神”に希望を見た筈だ。私には今がそれほど絶望的な状況には思えない」
 テーブルに頬杖を付きながら、エレフォは宿舎の外に視線を這わせた。こちらへ向かう足音を聞き、やや渋面になりながら言葉を続ける。
「それに姫は民から強い支持を受けている――元老院の貴族共と違ってな。今この状況で、元老院の用意する得体の知れない貴族を姫と結ばせ、王としたところで喜ぶ民がいるかも甚だ疑問だ。だが何よりも」
 エレフォが言葉を切った丁度そのとき、宿舎のドアが開いた。
 親衛隊の紅い軍服をまとった女騎士がエレフォを見て一礼する。
「エレフォ様、レゼクトラ卿がお呼びです。ミルディン王女がレガシス様にお目通りされるので、お支度を手伝うようにと」
「レガシス……?」
 聞き慣れない名をアルフェスが反芻すると、親衛の騎士は彼の方を向いた。
「ミルディン王女の婚約者にあらせられます。公式の場ゆえ、アルフェス様にもご同席をと」
 彼女の言葉に、アルフェスとエレフォは顔を見合わせた。
 既に元老院は王となるべきものを用意し、ミルディンの婚約者と位置づけている。それを、公式の場で重臣家臣を揃えて引き合わせるということは、もう婚約発表ということだ。
「……何よりも、だ。何もかもが急すぎる。キナ臭いとは思わないか……? アルフェス」
 アルフェスが表情を険しくする。
 だが――いきなり頭上から降ってきた“何か”に、二人の会話は途切れることを余儀なくされた。ぼとり、と音を立てて、白い毛玉が足元に落ちてくる。
「なんだ、これは」
 エレフォが怪訝な顔でつまみあげたそれに、アルフェスは見覚えがあった。
「それは、確か姫の……」
 そう、それは聖域"エルダナ"で、イリュアが"神獣"と呼んでいたもので、今はミルディンの召喚獣として取り込まれているものだ。
 首根っこ(?)を掴まれて暴れながら、珍獣のような神獣ケイパポウは、必死の様相でアルフェスを見上げた。
「……何か言いたげだな?」
「パポパポゥ!!」
 鳴き声も姿もどこか間抜けで緊張感がないのだが、その尋常ではない様子にアルフェスがはっとなる。
「まさか、姫に何か……?」
 呟いたアルフェスの言葉を肯定するように、ケイパポウが首を懸命に縦に動かす。
 通常術者に召喚されなければ召喚獣は具現されない。だが聖域でこの獣は、自らミルディンの空間を空けて具現を成していた。何か伝えたいことがあるなら、人語を話せるラトの方が適していることは一目瞭然だ。だとしたら今ミルディンは“召喚”を詠むことができないほど切迫した危険な状況にあり、自分で具現を成すことができるケイパポウがそれを伝えに来たのではないか――
 アルフェスの言葉とケイパポウの様子にエレフォがその表情に緊張を走らせた頃には、アルフェスは既に駆け出していた。


「――堕ちないな。あと少しなのに」
 強い光の気配を感じて、レガシスが独りごちる。
 強めに“支配”をかけたために腕の中の少女はぐったりしているが、それでもそれ以上心を操ることはできない。
「ボクのマインドソーサルの力がイマイチなのかな……?」
 言いながら、彼は片手でミルディンを支えると、空いた手を翳した。すると、その周りの空間がぐにゃりと歪み、手の中に銀の短剣があらわれる。
「残念だな。殺すしかないのか……」
 心底残念そうに、レガシスはミルディンの首にそれをあてがった。


 宿舎を飛び出し、騎士は一直線に謁見の間へと向かう。
 ミルディンが未だそこに居る確証など何もないのだが、アルフェスの直感が彼をそこに誘った。
 嫌な予感が、ケイパポウが現れたそのときよりも何倍にもなって膨れ上がる。胸がざわめく。
 謁見の間へ続く通路を曲がったところで、しかし彼は足をとめざるを得なくなった。
「これはこれは、レーシェル近衛隊長――その様に急ぎ足で、どうしたのですかな?」
「レゼクトラ卿」
 嫌味ったらしいその口調に、だが今は構っている場合ではない。ミルディンが危険な状態にあるかもしれないことを告げるか否か迷ったが、あくまでそれは憶測の域を出ないものだったし、彼は機転や融通の利く人物でもない。
 何より素直に自分の言葉を聞き入れてくれはしないだろう。
「……失礼ですが、急いでおりますので……」
 軽く会釈だけして、挨拶もなしにその横を通り過ぎる。だが彼はにやりと笑っただけで、そんな彼の態度を気にする様子も嫌味を言って引き止めることもなかった。
(……?)
 その態度に若干引っかかるものはあった――彼が自分の事を嫌っているのは重々承知している。  普段から何かと因縁をつけてはからんでくる彼のことだ、今も何か難癖をつけてくるに違いないと思っていたのだが――
 だが、それも今はどうでも良いことだ。
 黙って行かせてくれるならばそれで良い――その事にはそれ以上構わず走り、謁見の間まで来ると彼はその扉を迷わず開け放った。