13.遥けき時代の神と人

「……痛ぅッ」
 頭の奥がガンガンと疼いて、エスティは呻いた。力にさらされ続けたせいか気分が悪い。よろめきながら顔をあげると、目の前には空があった。
「……え……?」
 ぎょっとして足元を見る。そこに地面はなく、その遥か下の方に、果てしなく街が広がっている。だが唐突なこの状況を飲み込むよりも先に、エスティはもっと重要なことに気がついた。
「ラルフィリエル……!!」
 あたりを見渡すが空が広がるばかり。握り締めた手の感覚も、その温度さえもはっきりと思い出せるのに、そこに彼女はいない。
「畜生……!」
 吐き捨てて、エスティは降下した。地上に向かって何もない足元を蹴って下っていたのだが、じき体を動かさずとも意志ひとつで 視点が変わることに気がついた。同時にこの空間がエインシェンティアであることを思い出す。
 無意識下で制御できるほど力を自在に扱えていたので忘れていた。もちろん、それはイリュアの力の介在があってのことだろうが――
 とにかく、石畳の地面に降り立つ。
 綺麗に舗装された街路。立ち並ぶ大きな屋敷。目につくもの全てが見たこともない材質で、現在の建造物とはまるで異なる形状。何もかも異質だが、立派で、どれもが恐ろしく手がこんでいる。
 異世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える反面、その景色にはどこか見覚えがあり、既視感も同時に覚える。
「くッ」
 その途端、にぶく痛んでいた頭に、急に桐を指したような痛みが走る。
(そうだ、これは“あのとき”見たんだ)
 虚無との邂逅、そのとき脳に流れ込んできた膨大な知識と力。その断片に、この景色があったのを思い出す。知識を直接意識にぶちこまれるような感覚は思い出すと吐き気がしたが、エスティはそれを必死に手繰り寄せた。
「ここは、古代……!」
 その言葉の響きと裏腹なひどく近代的な街並みに、咄嗟には浮かばなかった答えだが間違いない。古代といえど、人の歴史の中で最も文明の栄えた時代なのだ、それを考えれば頷ける。
 だがその街並みに人の姿は見当たらなかった。魔法の力で栄えたというその時代に、労力を使って歩いて移動する者などいないということだろうが、そうなるとこの手のこんだ整った街路がひどく滑稽に見えてエスティは嘆息した。
「滑稽だろう」
 背後で唐突に聞こえた声に、驚いてばっと振り返る。今まで何の気配もなかったその場所に立つ者の姿を見、エスティは叫び声を上げかけた
「ラル……!!」
 だが、途中で言葉を切る。そこに立っていたのは、長いシルバーブロンドと、美しいアメジストの瞳を持った黒衣の女性だった。彼女はその風貌こそラルフィリエルに酷似していたが、その名を口にするのをやめたのは、それがあくまで“酷似”にすぎないからだ。彼女の容貌はラルフィリエルのそれよりも随分大人びているし、背も高い。それにラルフィリエルは髪を切ったのに、彼女のシルバーブロンドは腰まで真っ直ぐに伸びていた。
 そこにあるのは完璧な美貌。幼さの抜けた、一番美しさが際立つ妙齢の女性。だがその完璧さは冷たく、人を寄せ付けない。
「お前は」
 問うエスティに、彼女は瞳の冷たさの中にすこしだけ温かいものを見せた。その意味がわからず何も言えないでいるエスティの横を、彼女は黙ったまま通り抜けてゆく。
「待っ――」
 再び彼女を振り向く形になって、エスティが彼女を追おうと足を踏み出した刹那、再び景色の変動が起こる。踏み出した足元から、全身が力の抵抗を感じてそれを抜けた先には、はじめてサリステルに降り立った時に見た荒れ果てた大地があった。
 景色が変わっても“彼女”姿は消えずにそこにいたが、逆に今までは見られなかった人々が出現した。いずれも粗末な身なりをし、瓦礫の下からはいずるように、彼女へと集まってゆく。その姿は、地獄を這いずる者が神に救いを求めるかの様だった。
「見捨てられた者達だ」
 またも何の気配もなくすぐ横で声がする。美しく透きとおるような声。隣に立つ黒衣の女性を見て、思わずエスティは目の前にいる同じ女性と彼女を交互に凝視した。それを見て彼女が微かに笑う。
「ここは私の記憶だ。そしてあれは記憶の中の私」
 彼女の声以外は全てが無音だった。こちらの姿も、他の者には見えていないようだ。その間にも、目の前で助けを求めるように彼女に縋る人々は増えてゆく。
「充分な魔力を持たぬが故、闘争に負け、力の全てを封印され、この枯れた大地に幽閉された者たちだ。彼らには何も与えられない。彼らはただ神に救いを乞うた。日々絶望の中で、ただ神に縋った」
 傍で囁く彼女を、再びエスティは凝視した。
 神に縋った力を持たぬもの。
 目の前で彼女に救いを求めるもの。
 銀の神と紫水晶の瞳の女神、ラルフィリエル。

「お前は――」

 導かれた答えは、とても信じ難いことで――エスティが言葉を継ぐのを迷っている間に、目の前で光がスパークした。“彼女”を目に焼きつけたまま光の洪水に視界を奪われ、次に目を開けたときそこにあったのは無機質な床と温かい光だった。この場所には見覚えがあった。それもつい最近のことだ。
「リダ……!?」
 戻ってきたのか? 一瞬浮かんだ考えをすぐに打ち消す。周囲に群れる驚愕を浮かべた者たち、その中心にはやはり黒衣の女性がいる。“彼女”は美しいシルバーブロンドを煌かせ、瞳を細めて微笑んでいた。最初は戸惑いを見せていた人々も、直に彼女を讃えひれ伏しはじめる。
 無音だった世界に、唐突に声が闖入した。

「神よ……!」

 その声がエスティの出した答えを裏付ける。
 視線を向けられ、彼女はふと瞳を閉じた。その体がふわりと浮き、目の前の彼女と重なる。

 急に無音の世界は破られ、喧騒がエスティの耳に届いた。そのどれもが神を讃える声と感謝の言葉。“彼女”の視線はその人々のどこにも向けられていなかった。
 彼女が何を見ているのか知る者はいないだろう。こちらを真っ直ぐに見て、喧騒の中を良く通る美しい声で、彼女は告げた。

「私は女神ラルフィリエル。この世界を創造せし者――」