10.Wish
暗いその通路は、だが歩き出すと仄かに足元を光が照らす。少しひんやりとした夜の空気は、だが寒さの苦痛を感じることはない、心地良い温度。どこまでもこのリダは過ごし易く居心地が良い――だが、それがなんとも言えず居心地が悪い。主君を探し、騎士は早足で昼間イルに案内された箇所を回った。やがてフェアブロンドの輝きが目に留まり、アルフェスは足を止めた。
「……姫。こちらでしたか」
宵の口に休憩をとったその公園のベンチに、ミルディンは腰掛けていた。
闇に沈むリダの中、その場所だけが優しい月明かりのような光に包まれて、その光の中でどこか遠くへ視線を彷徨わせる彼女の表情は、ひどく憂いに満ちている。見慣れないその大人びた様は美しく、声をかけるのをためらったくらいだった。
「アルフェス……」
こちらに気付いてミルディンは立ち上がった。そして少し微笑む。
「あまり一人で出歩くと危険ですよ」
「あ……ごめんなさい」
忠告したアルフェスの声が穏やかだったのに対して、ミルディンは笑みを消すと不自然な程に強張った表情で詫びた。
「姫?」
「……」
様子のおかしいミルディンに、アルフェスが心配そうに声をかけるが、無言のままに目を逸らす。だが困ったような表情で自分を見つめる彼に気付いて、ミルディンは息を吐くと、やがて口を開いた。
「わたし……ランドエバーに帰ります」
「え?」
思いもかけなかったその言葉に、咄嗟に言葉を返せないアルフェスを見て、ミルディンが真意のよわくわからない笑みを見せる。
「わたし、いつも我儘ばかり通してて。アルフェスやエレフォに迷惑かけてばかりだったでしょ? 元老院が、わたしのことを良く思ってないのも知ってる。だから、もう我儘は言わない。王女として、立場をわきまえて行動します」
大人びた微笑で、ミルディンはきっぱりとそう言った。決して無理をしているわけでもなく、迷いがあるわけでもなく、その決意の瞳は、彼女が悩んだ末にその結論に達したことを示している。
だが、何故かそこに違和感を感じてしまう。穏やかな笑みに、彼女の心が見えない。
「それは、本心で言っているのですか?」
思わず問い返したその言葉に、アルフェスは自分で驚いていた。ミルディンが城で大人しくしていてくれるのだったら、それが一番良い筈だ。危険なことに首を突っ込んだりせず、外の世界に憧れたりもせず、ただ王女として城にいてくれるのならば、ただ自分も彼女の側にいて、彼女に近づく危険など全て打ち払ってみせられる。
何より、彼女の決意を詮索する必要などないのだ。一介の騎士として、ただ従えばいい筈なのに。
そうすると決めた筈なのに――
問いに頷く彼女を見て、さらに胸がざわついた。
(……嘘だ)
わかってしまう。
彼女は上手く感情を押し殺したつもりだろう、でもわかってしまう。ぎり、と拳を握り締める。言うな、と騎士は自分に言い聞かせた。喉を通ってくる言葉は、どう考えても言わなくていいことだ。
「私が知る姫は、決して自分の意志を途中で曲げるような方じゃない」
なのに、気づくとそれは声へと転じてしまっていた。はっと見開かれたセルリアンブルーの瞳と、戸惑うアイスグリーンの瞳がぶつかる。騎士の心にあるのは、帰ると言った主君への戸惑いと、喜ぶべきことのそれを喜べない自分への戸惑いで、言い訳しようと開いた口はなんの言葉も結べないまま――
「……わたしだって!!」
激昂するミルディンの声にかきけされた。
「わたしだって、本当は旅を続けたい! 力がないことの苦しみなんて、あなたにはわからないわ! はじめて何か役に立てて、舞い上がって旅に出て、でも結局誰かに護られてばかりで、自分の身すら護れない!!」
溢れた涙を乱暴に手の甲で擦って、ミルディンはその拳をどん、とアルフェスに叩き付けた。
「あなたには……わからない……!」
「……」
俯いて叫ぶミルディンに、アルフェスは動けずにいた。
(――わかるよ。その君の苦しみを、癒す力を僕は持たないから――)
小さな肩が震えているのが見える。ミルディンは泣いていた。だけどその肩を抱きしめて、涙を拭うことは、騎士にはできなかった。
それは少女がミルディン・W・セシリス=ランドエバーで、騎士がランドエバーの守護神だから。だからアルフェスは動けなかった。
「ごめんなさい」
やがて嗚咽が途切れると、小さな謝罪の言葉が聞こえた。まだ彼女は顔を上げなかったが、ただじっとアルフェスは彼女を見つめた。
「あなたを……責めるつもりじゃなかったの。わたし……ほんとうは旅を続けたいわ。そんなに中途半端な気持ちで国を出たわけじゃない。戦を止めたいと、今も強く思ってる……」
力が無いと嘆く暇があるなら、何か役に立てるように努力したい。そう思ってミルディンは必死にこの旅についてきた。
だがあの瞬間、そんな決意も儚く消えた。
「だけど、そんなわたしの我儘であなたを失うのは嫌なの……!」
――アルフェスが血飛沫を上げて、暗い海へと吸い込まれてゆくのを見た、あの瞬間。
顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
あの瞬間に、全てが解らなくなってしまったのだ。戦を止めたいというのも旅に出たいというのも、全ては自分の我儘でしかなく、 自分が何かできることを証明しようとしているのは、自分自身を救う為だったのかもしれないと――ただ自分を責め続けていた。
そして、騎士はいつも真っ直ぐだった主君の瞳が迷うのに、驚いていた。そしてそれが自分の所為であることが、余計に苦しかった。傍で護り続けると誓ったのに、自分は破れたのだ。その代償に、アルフェスは強く拳を握った。
――例え抱き締めることができなくても、涙を拭えずとも、その光だけは消してはいけない。迷いの中で唯一掴んだ答えを握り締め、アルフェスは口を開いた。
「……ミラ」
「!」
光の消えた虚ろな瞳が、確かに呼びかけに答えて自分を映した。それを確かめて、アルフェスはそっと彼女の濡れた頬に手を伸ばした。
「僕の所為で、君が決めたことを曲げないで。僕が決めたことを、僕が曲げない為にも」
指先が彼女に触れた瞬間、だがアルフェスは手を止めた。そして彼女に背を向ける。
白い軍服と対照的な黒い外套が翻り、彼女の視界を覆ったが、その黒に彼女は問いかけた。
「あなたが……決めたこと?」
「君を守ること。君が君の信じるものを貫けるように」
振り向かない彼に、少しの切なさと少しの苦さを感じたが、それを遥かに上回る温かいものが、確かに胸に流れ込んでくる。
だから、ミルディンは微笑んだ。