5.皇帝ガルヴァリエル

 咄嗟に誰もが動き出せなかった。それは、この事態があまりに突然だったこともあるが、何より重くのしかくるようなプレッシャーのせいでもある。シルバーブロンドと、紫水晶の目をした、この美しい青年の放つ威圧に誰もが気圧されていた。
 ラルフィリエルと同じ髪と瞳を持ち、彼もまた非常に整った顔をしているが、彼女とは全く似ていない。彼は不遜な笑みをその冷たい表情に浮かべると、嘲るように優雅に一礼した。
「お初にお目にかかる。私は、ガルヴァリエル・ウェルテス・レグリア=セルティ――以後お見知りおきを」
 視線がぶつかって、エスティは思わず震えた。
 戦える気がしない。
 背中を冷や汗が伝う。そんな彼の心情を知ってか知らずか、冷笑を浮かべたまま皇帝ガルヴァリエルは言葉を続けた。
「貴様のことは、ラルフィを通じて以前から知っていたよ――エスティ・フィスト。実に、愉しませてもらった。しかも、この大陸を訪れてくれるとはね」
「どういう……ことだ」
 固く拳を握り締め、やっとのことでエスティはそれだけの言葉を吐き出した。彼は、敵だ。今すぐにでも、この手で切り裂きたいほどの憎しみを向ける相手だ。それほどの激情が胸の中にありながら、だがエスティが動けずにいるのは、その向こうに絶対の死が見えているからだ。
「わからないのか? デリート・システムを受け継ぐ者よ。この“エルダナ”がどういう場所なのか」
 エスティは答えなかった。いや、正確には答えられなかったのだが。そのような知識など、得てはいない。
「なるほど? デリート・システムは……ヤツらはそれを貴様に教えてはいないのか。まあいい、では問うが、何故この大陸が強い封印によって護られていたと思う?」
「……」
 やはり答えられないエスティに、皇帝は溜め息をついて言葉を変える。
「では誰から護っていたと思う。エスティ・フィスト」
 その紫水晶の瞳に――ラルフィリエルと同じ色だがまるで違う冷たいその瞳に、エスティは全身が総毛立った。理解したからだ。 彼が何を言わんとしているかも、そして何故寝返ったラルフィリエルを、彼が放置していたのかも。
「……なるほど。この大陸は強いエインシェンティアによって封印されていた、テメェでも手が出せない程の力の強い……な。だから、時空を操る力――召喚を持つミラを使って、そいつを時空の狭間に送って封印を解いた」
 皇帝が満足気な表情を浮かべ、エスティはぎりぎりと拳に爪をくいこませた。
「つまり、オレ達はここに来ることで、ここに招かれざる客を招いたってことだな……!」
「正解だ」
 にやり、と笑いながら、皇帝が歩み寄ってくる。身構えるが、それが意味を成すかは疑問だった。
「ここに――この“エルダナ”に、何があると言うんだ……!!」
「貴様らの言う、エインシェンティアだ。そしてそれは貴様が探すもので、私が探すものかも知れぬ。即ち、“究極にして禁忌の(アルティメット)”エインシェンティアだ」
 時間を稼ぎのという悪あがきに近い問いかけだったが、意外に皇帝は答えて来た。その内容に、エスティは思わずラルフィリエルに視線を走らせたのだが、そんな彼を一瞥して皇帝は嘲笑した。
「知識が足りぬな。力も足りぬ。今の貴様ではまだ愉しめぬ」
 間合い丁度で立ち止まられて、エスティは覚悟を決めた。視界の端で、ラルフィリエルとルオも、同じく身構えたのを確認する。この面子ならば、一方的にやられることは無いはずだ。だがそんな彼の思いを嘲笑うかのように、実際に嘲笑を浮かべてガルヴァリエルは深紅のマントを翻した。同時に、彼の姿が掻き消える。
 次の瞬間、彼が現れたのは、ミルディンの真後ろだった。
「ミラ!!」
 エスティが顔色を変える頃には、ガルヴァリエルの白い手が振り向いたミルディンの首を掴んでいた。
「……!!」
 声をあげる間もなく、片手で首を締め上げられて、彼女の身体が宙に浮く。
「そう、“エルダナ”のエインシェンティアにも興味があるが、この大陸を封印していたヤツには借りがあるのだ。そして、ランドエバーのエインシェンティアも貴様らに預けたままだった。渡してもらおうか? ミルディン王女よ」
 静かに告げる皇帝に、ミルディンは必死で抵抗しながら、だが決して従おうとはしなかった。恐怖も迷いも忘れて咄嗟にエスティは剣を抜いたが、皇帝がこちらを一瞥しただけで銀色の風が巻き起こり、その行く手を阻まれてしまう。その間にも、除々に彼の手に力がこもり、ミルディンの細い首を締め上げてゆく。ミルディンの顔が苦痛に歪んでいく。
「ミラ!!」
『ミラ、言うとおりにするんだ』
 エスティの声を押しのけ、ミルディンの頭の中ではラトの強い調子の声が響いた。だが、苦痛に遠のく意識の中でも、ミラは頑なにそれを拒んだ。
「い……嫌です! ラトは……渡さ……いッ」
 地についていない足がもがくが、最早その力も失われつつある。
「そうか……君には封印を解いてもらった恩があるからな。手荒な真似はしたくなかったのだが致し方ない。制御力を失った時に頂くとするか」
 白々しくガルヴァリエルが嘯き、エスティは歯噛みした。制御力の喪失は、死を意味する――
「やめろッ、ガルヴァリエル!!」
 たまりかねたようにラルフィリエルが叫ぶが、 「口がすぎるぞ、ラルフィ。もちろんお前も連れて帰るからな――」
 冷たい紫水晶の瞳に睨めつけられて、立ちすくんでしまう。  だがミルディンは、そこに死が見えていても決して皇帝に従わない。どうして、と震えるラルフィリエルの声をエスティの絶叫が裂いた。
「やめろ――――――ッッ!!!」
 銀色の風が、叫ぶエスティの体を切り裂く。だがそんな痛みなど彼にとってはどうでも良かった。失った痛みがまだ心を絞めつけたままなのに、また失ってしまう。自分は何もできないままに。
 だが、誰もが無力を呪いながらも立ちつくすしかできないその間も、ミルディンは絶望を感じていなかった。

 その唇が、声にならない声で、或る名を喚んだ、その刹那――彼らの間近で、凄まじい金色の光がほとばしった。

「ぎりぎり、セーフッ!!!」
「!?」
 目も眩む光の中に、エスティは二人の人影を見た。いっそ場違いな程明朗な声がその場に響き渡ったのと、ガルヴァリエルが跳ね飛ばされたのがほぼ同時。皇帝の手を離れたミルディンを、現れたその“誰か”が受け止める。
 はっきりしない意識の中で、だがミルディンは自分を抱える手の存在をはっきりと感じ取っていた。そして、それが誰なのかもわかっていた。空気を貪ることに必死でうまく動かない体で、それでもその白い軍服を、ミルディンはきつく握り締めた。
「やっぱり……生きていたのね……!」
 涙が溢れるのは、苦しいからではない。彼はミルディンを抱き止めたまま、短いブロンドを揺らして微笑いかけた。

「長らく仕事放棄してすみませんでした――姫」