2.聖域『エルダナ』

 奇妙な沈黙が支配したままの船旅の末、果たしてエスティ達は切り立った崖に囲まれた未開の大陸に辿りついた。エスティが黙ったまま碇を降ろす作業に取り掛かり、ルオも無言でそれを手伝う。
「本当にここから行けるのですか?」
 そびえ立つ崖の遥か上の方を見上げ、ミルディンは不安げな声をあげた。それを受けて、エスティが作業の手を止めないままにラルフィリエルに視線を向ける。
「行けるか? ラルフィ」
「……ああ、距離的に問題はないが……」
 言葉を濁した彼女に、エスティが怪訝な表情をする。作業を終えてこちらへと歩み寄ってきた彼が何か言う前に、ラルフィリエルは紫の双眸を細めると、“力”を行使した。エスティに、そしてミルディンにも少し、彼女へと集束する魔導の力の流れが視えた。
 銀色の風が、巻き起こり――だが、霧散する。
「ッ」
 小さな叫び声をあげ、唐突にラルフィリエルがその場に崩れ落ちる。
「ラルフィ!?」
「きゃあああッ」
 慌ててエスティがラルフィリエルに駆け寄るが、またも唐突に起こったミルディンの悲鳴に足を止められる。
「ミラ、どうしたッ」
 彼女の方を振り仰ぐ。その異変に、すぐには気付けなかった。悲鳴をあげたことなど嘘のように彼女はそこに立っていたから。だが、よく見るとセルリアンブルーの瞳は虚ろで、何も映してはいない。それはまるで――
(リューンの精神魔法……?)
 頭に浮かんだそれをすぐに打ち消す。彼はもういないし、ミルディンを操るいわれもない。
「これは……そしてさっきの力は……」
 小さな声に振り向くと、何かに脅えたようにラルフィリエルがミルディンを見ていた。未だ立ち上がれないまま、彼女は震えた。だが、ミルディンがすっとその細い手をかざすのが見えて、びくり、と跳ね起きる。
「駄目だッ! エスティ、彼女を――」
 何かを言いかけたラルフィリエルがそれを言い終わる、エスティがその言葉に反応して動き出す、ルオがミルディンへと駆け寄る、その各々の行動の全てが終了する前に、

『“我が御名において時空の扉よ開け”』

 ミルディンの唇が、スペルを紡いでいた。

 その刹那、凄まじい閃光がほとばしり、その場に居た全員が思わず目を伏せた。瞼を通して入ってくるほどの強烈な光が、辺りを、彼らの乗る船を包み込む。目を伏せるその寸前にエスティが見たのは――
(大陸が、光っている……?)
 ここから見えるのはサリステル大陸の側面、それもほんの一部にすぎないが、確かにそう見えた。
「封印が、解かれる……!」
 光の向こうでラルフィリエルの叫びが聞こえてうっすらと目を開ける。
 膝をついたラルフィエイルから、魔導の力が流れ出て大陸の方へと向かうのがはっきりと視える。つまり、はっきりと視えるくらい膨大な魔力が、大陸に吸収されていくのだ――それを解してエスティは絶句した。
 いくらかこの光にも目が慣れて、エスティが完全に瞳を開くと、大陸を核にほとばしった閃光が空に巨大な魔方陣を描いているのが確認できた。そしてそれは中心から少しずつ歪み、やがてとてつもなく巨大な時空の乱れを生み出す。

 ブンッ――

 気圧の変動が起きたときのような感覚が身体を走り抜ける。その正体をラルフィリエルだけが解っていた。

 ――転送呪(テレポート・スペル)

「気をつけろ! “聖域”だ!! 全てのものを試し、始まりを告げるもの、“エルダナ”――!!」

 気がついたら叫んでいた。その自分の声にラルフィリエルは愕然とした。
 サリステル大陸になど行ったこともないし、そこにある“リダ”という里も“エルダナ”などという聖域も自分は知らない。

 これは誰の声?
 ラルフィリエルは自問する。
 この記憶、この知識は誰のもの?
 これは、"私"のものではない――!!!


 気がつくと、周りには誰もいなかった。まるで今までのことが嘘だったように、目の前にはサリステル大陸があり、頭上には蒼天が、下には海が広がっている。白昼夢でも見たようだ。
 だが、先刻との決定的な違いは、この船に乗っているのが自分独りだということである。
「ったく、訳がわかんねー」
 エスティは独り言ちた。立て続けに様々なことが起こり、すっかり混乱した頭を必死に落ち着かせる。匙を投げたい気分だったが、このまま何もしないわけにもいかないだろう。自分だけが別次元に放り込まれたのならともかく、仲間達がどこかに飛ばされたかもしれないのだ。
 船の縁に寄りかかり、腕を組むと、エスティは今までに起こった出来事を頭の中で整頓した。
 ――まず、サリステル大陸に到着し、ラルフィリエルがテレポートスペルを試みたが何故か失敗した。次に、ミルディンがまるで精神魔法にかかったかのような状態に陥り、召喚のスペルを詠んだ。すると大陸が光を放ち、ラルフィリエルの魔力を吸収して時空に歪みが生まれた。
 そして、今の状況だ。
「……いや。ラルフィが何か言っていたな……」
 閃光が巻き起こって、あの急に海の底に突き落とされたかのような妙な感覚が身体を襲ったとき、確かに彼女は何かを叫んでいた。
「封印……試す、“エルダナ”……」
 聖域“エルダナ”のことは、聞いたことぐらいはある。だがその程度だ。実在するかどうかすら怪しいその聖域のことを、そもそも何を以って聖域とされるのかすらもエスティは知らない。
 ラルフィリエルの言葉の片鱗を必死に手繰り寄せるても、結局はわからないことだらけだ。溜め息をつき、エスティは自分の黒髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
「ダメだ、全くわかんねぇ……」
 だが、唐突に人の気配を感じ、ふと手を止め顔を上げると、エスティは反射的に腰に携えた長剣を握り締めた。
 仲間か、それとも敵か。
 全身を緊張させ、エスティは問いかけた。
「……誰だ?」
 その言葉に応えるかのように、あっけなく気配の主は姿を見せた。そしてその瞬間、エスティの中で、時間が凍りつく。

「ウソだろ……?」
 掠れた声が漏れる。
 動けないでいるエスティを気に留める風でもなく、“彼”はこちらへ歩を進める。

 それは、絹糸のように滑らかな亜麻色の髪と、ジェードグリーンの瞳を持つ美しい少年。


 その絶世の美貌をエスティはよく、とてもよく知っていた。