1.苦痛と至福の間

  コンコン、と軽い音を立てて、部屋の扉が二度ノックされる。その音に、ぼんやりと窓の外を眺めていたシレアは、のろのろと立ち上がった。スティン城の一であるこの部屋は、元はスティン王の姉姫、つまりシレアの母親の部屋だったのだが、今はシレアに与えられたものだ。
「はぁい?」
 気分が良いとは言えなかったが、極力明るい声で返事をする。その向こうにいるのが誰だとしても、要らぬ心配をかけることはないだろう。
「シレア? わたし。ミラ。入っていい?」
 聞こえてきた声に、シレアは幾分ほっとした表情になると、急ぎ扉へ歩み寄った。扉を開けると、聞こえてきた声の通りの人物が、ティーポットを乗せたトレイを持って立っていた。
「お茶にしない?」
 ふんわりとした笑みを見せてミルディンが言う。シレアは嬉しそうに頷くと、彼女を部屋に招き入れた。ミルディンが部屋の中央にあるテーブルにトレイを乗せ、シレアが椅子に腰を下ろす。そして、優雅な仕草で紅茶を淹れるミルディンを見つめて、ほう、と息を吐いた。
「さすが、一国の王女様ねぇ、ミラは。何しても絵になるわ。あたしみたいな即席のお姫さまとは訳が違うわよね」
 テーブルに両肘をついて感嘆の声をあげるシレアにミルディンは微笑んだ。言い方によっては嫌味ともひがみとも取れるのだが、彼女の口調にはそういったものは僅かたりとも含まれておらず、普段は王女扱いされるのを嫌うミルディンも、嫌な感情は持たなかった。
「こんなことできてもどうにもならないわよ。でも、やらないとこわーい躾の先生に、怒られるの」
 茶目っけをこめて言うミルディンと笑い合う。
(そういえば、あたしも色々習わされたっけ)
 湯気が立つ紅茶に砂糖を入れながら、シレアはそんなことを思い出した。お稽古を逃げ出しては母に窘められた思い出が蘇って、思わず涙が出そうになる。が、それはなんとかこらえた。
「……そういえば、ミラ。エス達と一緒に行くんだ?」
 感傷を振り切るように、シレアは話題を変えた。自分の分の紅茶をカップに注ぐ手を止め、ミルディンはシレアをあおいだ。
「ええ。何かお役に立てればと思って……」
 答えてから、再び紅茶を注ぐ。ポットを置いて、自らも椅子に腰かけてから、二の句をついだ。
「シレアも行くんでしょ?」
 だが、当然返って来ると思っていた返事は彼女からは無く、変わりにシレアは首を横に振った。
「え!? どうして……」
 完全に予想外の答えに、思わずミルディンの声が大きくなる。対照的にシレアは冷静に彼女を諫めた。
「もちろん、ずっとじゃないわ。あたしだって、お兄ちゃん達の力になりたいから。でも、しばらくはここに残ろうと思うの。叔父様を助けてあげたいし」
「……あ……」
 シレアの言葉に、ミルディンは手を口にあてると俯いた。
「そう……よね。ごめんなさい、声を荒げたりして。そうね、ここはシレアの故郷だものね」
「あんまり実感ないけどね」
 砂糖を入れた紅茶をかき混ぜ、シレアは苦笑した。戻ってきたとき、懐かしいとは思ったが、故郷だという感じはしなかった。最もそれが具体的にどんな感情なのかは知る由もないし、前者がそうなのかもしれないが。とにかく実感はないのだ。
(懐かしい……けれど、あまり帰りたくは、なかった――)
 それが、正直な感想。故郷というにはあまりにも哀しい思い出しかない、一時的に、記憶まで閉ざしてしまった惨劇の地。
「記憶が戻ったのも最近って言えば最近だし、そのせいもあるかもね」
 わざと軽い声を上げて、カップに口をつける。「ん〜、もうちょっと」、そんな声をあげながら再び砂糖を入れるシレアを見つめ――
 ふいに、ミルディンは“にやっ”と笑った。
 それに気付いて、シレアが不審な表情になる。彼女がこの手の笑い方をするのを、シレアは見たことが無かった。
「……何、ミラ」
「いつかの仕返し、思いついた」
「え?」
 眉をひそめるシレアに、得意げに笑いかける。
「シレア……あなた、リューンさんのことが好きなんでしょう」
「う……えっ!?」
 唐突な言葉に、シレアの顔がみるみるうちに紅潮する。
「な……ッ、なんで!?」
 叫びながら、何度も砂糖を紅茶へと入れる動作を繰り返すと、今度はぐるぐるとかき混ぜはじめた。恐らく全て無意識なのだろう、そんなシレアを見てミルディンはくすくすと笑った。
「大体わかるわよ。だから、記憶が戻ったのね?」
「う……」
 ずばりと言われてシレアが言葉をなくす。
「確かシレア、この手の話、好きよねぇ」
「……意地悪」
 してやったり顔のミルディンを見、シレアは呻いた。
「お互い様よ」
 いつか、アルフェスとのことで色々言い当てられてしまったことを差して、ミルディンがサラリと言う。
「わたしも、女の子よ? シレア」
 ウィンクをしたミルディンを見て、ついにシレアも観念したように笑った。
「……“お兄ちゃん”じゃ、嫌だったんでしょう?」
「……うん」
 膝の上で手を遊ばせながら、シレアは素直にミルディンの言葉を肯定した。
「でも……“お兄ちゃん”のままで良かったのかも。あたしはただ、あの人の側にいられればそれでいいって、今はそう思うから……。“妹”でもいいの」
 笑みを消して、切なさの宿る声でそう言ったシレアの気持ちは、ミルディンにも痛い程解った。それはきっと、“姫”でもいいから彼の側にいたいと思う自分の気持ちとよく似ているのだろう。

 離れていってしまうくらいなら、何も望まない――

 最大の苦痛と最大の至福を捨て、曖昧な至福と苦痛の間で揺れるだけ。
 ミルディンは目を伏せた。だが、すぐに重くなった空気を振り払うように明るく微笑む。
「大丈夫よ、シレア。だって、きっとリューンさんにも……貴方が必要なんだもの」
「そう……かな?」
 力なく問い返すシレアに、力いっぱい応える。
「そうよ」
 力強いその返答に、シレアの顔にも微笑みが戻った。
「……うん。ありがとう。あたし……頑張るね。だからミラも、諦めちゃだめだよっ」
 はにかんだ笑みを浮かべながら、ミルディンも頷いた。
 ――遠慮がちなノックの音が聞こえたのは、丁度その時だった。