16.「僕はこの道を進むことに迷いなどなかった」

 四人が聖域と呼ばれるその場所に到着したときには、もう日が沈みかけていた。
「ここがその聖域か」
 聖域という厳かな響きの割りに、その場所は殺風景だ。白銀の、小さな祠があり、それを囲むようにして、同材質の四つの柱がある。近づこうとしたエスティだったが、肌にチリっと熱さに似た痛みが走って、立ち止まった。
「気をつけてください。この柱で囲まれた中は聖域。封印を説かないと、灼かれます」
 ミルディンが鋭い声でエスティを制する。
 被っていたローブを脱ぎ捨て、ミルディンは真っ直ぐ祠に近づいた。そして、柱と柱を結ぶ境界ギリギリで立ち止まると、腰に差していた短剣を抜き放つ。
「姫?」
「今、封印を解きます」
 怪訝な顔をしたアルフェスに笑いかける。そして、その短剣で、ミルディンは己の左手首を切り裂いた。
「ミラ!?」
「ひ、姫ッ」
 その行為に、シレアとアルフェスが悲鳴に似た声を上げる。が、ミラはそれを気にもかけず、血の流れる左手を掲げると、祠に向けてスペルを紡いだ。

『“我が御名において命ず!我が血流を証とし、我を受け入れよ!”』

 ミルディンの凛とした声が、聖域に吸い込まれる。外見上は何の変化も見受けられなかったが、王女は手を降ろすと、迷うことなく歩を進めた。
「姫……!」
「大丈夫です」
 最早、蒼白なアルフェスを安堵させるようにミルディンが微笑む。その言葉を裏付けるように、ミルディンが聖域の中に入っても彼女の体に異変はなかった。だが、依然として灼けるような魔道の威圧を感じ、エスティが呟く。
「『血封呪』……失われたスペルだ。受け付けるのはランドエバーの血のみ――これ以上強固な檻はない」
「それなら、ここから持ち出さずとも――」
 アルフェスが、素朴な疑問を口にしかけた、まさにその瞬間だった。
 聖域に、銀色の風が巻き起こる。あろうことか、彼女は聖域の中に、転移してきた。
「……カオスロード!!!」
 エスティが叫ぶ。彼の目には、彼女を灼かんとして、彼女へと突き刺さるような魔道の流れが確かに視えていたのだが、どれも彼女に触れる瞬間消失した。アルフェスにも視えているのだろう。もともと蒼白だった彼の顔から、さらに血の気が引く。
「古代秘宝を、頂きに来た」
 美しく澄んだ声が、響き渡る。
 誰も、すぐには反応できなかった。だが、カオスロードが剣を抜いたその瞬間――
 騎士は、地を蹴った。
「ダメだ、アルフェス!」
 慌てて、エスティが彼を羽交い絞めにして止める。
「放せッ!! 姫が……!」
「落ち着け、オレ達が行っても、結界にやられるだけだ!!」
 いくら彼の光の力が尋常でないと言っても、古代の結界の前に通じるとは思えなかった。行っても結界に灼かれて死ぬだけ。それは、アルフェスにも解っているのだろう。だが、それで落ち着いて見ていることなど、到底彼には無理だった。
「王女!! こっちに戻るんだ、早く!!!」
 必死でアルフェスを押さえながら、エスティが叫ぶ。それがミルディンに届いてない筈はないのだが、彼女は動かない。
「…………あなたが、カオスロード」
 呟く。その双眸に、憤怒の炎を燃やして。
「あなたが、私の国を……私の国の、民を。……殺したのね」
 ミルディンは震える声で、言葉を紡いだ。ならばランドエバーの王族として、背を向ける訳にはいかない。
 カオスロードは、それには答えず、ただ剣を構えて近づいてきた。
「そこを退け。邪魔をするなら殺す」
 だが、ミルディンは退かない。
「貴女には渡しません。私の命に換えても」
「愚かな――」
 呟き、カオスロードが剣を振り上げる。
「姫!!」
 その剣が、彼女を貫くまで、あと一瞬。

「……ミラァァァッ!!!」

 アルフェスの絶叫が、聖域にこだまする。
 それ以上は、目が視ることを放棄していた。五感を手放して、彼が感じたことは全てが終わったということだけだった。それは彼にとって彼女を守ることが全てだったからだ。
 騎士の家系に生まれ、騎士になることを余儀なくされ、強要されるのは苦痛だったがそれでも騎士になろうと決めた。
 暗い視界の向こうで幼き日の記憶が映って行く。死に晒されているのは自分でないのに、まるで走馬灯のように。
 父に連れられて行った王城で、偶然出会った少女が王女だと後に知ったとき――彼は騎士の道を受け入れた。
 彼女と、彼女が愛してやまないこの国を守れるのならどんなことでもすると誓った。だから――
(だから、僕はこの道を進むことに迷いなどなかった)
 それなのにそんな決意すら今は儚い。彼女がいないなら全て意味はない――


「――ス。アルフェス!!」
 呼ばれ、アルフェスは我に返った。全てが終わった今、その必要もないような気はしたのだが。
 だが、彼の視界に飛び込んできたものは、絶望ではなかった。彼が見たのは――細剣を持って佇むカオスロード、その前にたちはだかる、巨大な白銀の竜。
 そして、その竜に抱かれている、フェア・ブロンドの少女。
「……ミラ」
 放心したように、アルフェスが呟く。
「アルフェス、王女はまだ生きてる。……守るんだ」
 エスティがそう告げると、アイスグリーンの瞳に輝きが戻るまで、時間はかからなかった。
「いいか、アルフェス。オレは、今からデリート・スペルを使う。だが、あのエインシェンティアの力は大きすぎる……オレの力じゃ、消去できるかどうかは解らない。だが、姿を現した今なら力を無効化するぐらいはできるはず。そうすれば、あの結界はエインシェンティアから力を得ているから――おそらく消えるだろう。だが、長くは保たない。その間に王女を助け出すんだ」
 時間がそうあるとは思えなかった。
 早口にまくしたてると、エスティは返事を待たずに印を切った。