13.最後の戦 1
自然に足が動くのは、そこが慣れた場所であるから。自分が持つ少ない記憶のほとんどをここで費やしたラルフィリエルにとって――不本意ではあるが――セルティ城は自分の住処にも等しかった。
感情を殺して、何度も通ったこの回廊。
だがそれを感情のまま走りぬけたのは、ほんの少し前のこと――
「……私は、ずっとこの場所にいた」
エスティの前に立って歩きながら、ラルフィリエルは呟く。
「指令を受けるたび、人を殺し国を滅ぼし。そしていつでもここに帰ってきた。報告をし、そして新たな指令を受けるため」
ラルフィリエルの口調は独白に近く、エスティは黙ってただ彼女のあとを追った。
「私は、恐ろしかった。逃げたかった。だけど逃げ場所など何処にもなかった。誰も私を顧みる者など誰もいなかった――あなたが、私に手を差し伸べてくれるまで」
小さく振り向く。その視線を受け止める深紅の瞳とぶつかって、ラルフィリエルは小さく微笑むとまた前へと向き直った。そして、一歩一歩ゆっくりと歩いてゆく。もう走る必要はない。
「あの日私は皇帝から逃げ出して、いろんなものを得ることができた。ならば、逃亡も悪くはなかったろう……だが、もう逃げるのは終いだ。戦もまた、終いだ。だからこれが最後の戦。カオスロードの……最後の戦だ」
謁見の間の荘厳な扉の前で立ち止まると、ためらいなくラルフィリエルはそれを押した。
もう、畏れに足が震えることもない。
漆黒の床に真っ直ぐ伸びる、血のように紅い絨毯。“彼”の元に誘う血塗りの道のようなそれを踏み出し、ラルフィリエルが再び歩き出そうとする。だがそれより先にエスティは進み出た。もう、彼女の先導は必要はない。
「オレにとっても最後の戦だ。願わくは、いまを生きる全てのものにとって最後の戦になればいい」
赤と黒の先の、その玉座に身を預けるは――セルティ皇帝、ガルヴァリエル。
否、この世界の神。
「待ちくたびれたぞ。ラルフィリエル。そして、エスティ・フィスト」
慣れることのない威圧を放つアメジスト。絶対の死を見せるシルバーブロンド。
愉しげに口の端を持ち上げて、穏やかに彼は問う。
「再度聞こう。ラルフィリエルを返してもらえるかな」
「何度聞いても答えは同じだ」
ガルヴァリエルの問いを突っぱねて、エスティがすらりと剣を抜く。
「ごたくはいい、決着をつけよう。茶番を終わらせたいのはオレも同じだ」
「……人風情が、よく吼える」
ゆらり、と神が立ち上がる。自分に向く切っ先をその目に捉え、ふん、と彼は鼻をならした。
「そんなもので、この私をどうにかできるとでも?」
「わかんねぇぜ? 案外どうにかなるかもよ」
軽口を叩けるくらいには、落ち着いているようだ――だが客観的にしか自分を測れないのは、逆に言えばそれだけ焦っているのかもしれないが。
どちらにせよ、この剣を棄て後戻りできる道などありはしないのだ。
「愚かな……だがまあいい。折角ここまで来てもらったのだ、少しばかり遊んでやろう」
言葉と同時にガルヴァリエルの姿がぶれる。その歪みから、黒い光がエスティを灼きつくさんと、手を伸ばす。
だが、エスティが剣をかかげただけで、それらはあっけなく掻き消えた。予め、剣にシールドを張っておいたのだ。だが、それだけの為に剣を抜いたわけでは無論ない。 「そんなもので、オレをなんとかするつもりか?」
いつもどおりの勝気な笑みを浮かべて言ってやると、揺らめく皇帝の姿、その口元が嘲笑を模るのが僅かに見えた。その刹那。
「危ない!!」
ラルフィリエルの声で反射的に跳んだ、その場所を核に、黒い竜巻が巻き起こる。
ガゴォッ!!
鼓膜を突き破るようなはげしい轟音と共に、天井が落ち、壁が吹き飛び、漆黒の床が崩れ落ちる。
「本気で挑発に乗るか、普通!?」
思わず叫びながら、エスティは城の崩壊から辛うじて逃れた。その横を、銀の輝きが駆け抜けていく。
「まさか、お前が私に剣を向けるとはな……」
ラルフィリエルが走り、振り下ろした一撃を、ガルヴァリエルが左手で受ける。
「……忘れてはいまい? 貴様に選択の道はないのだ。だが良いのだぞ、今すぐ貴様を暴発させて、この世界を吹き飛ばしても。それこそが私とラルフィリエルが望むことだからな」
ぎり、とラルフィリエルが剣に力を込めても、その左腕が斬れることは愚か衣服すら裂けることはなかった。それでもラルフィリエルは剣を引かない。
「だが、お前はそうしない」
ぎりぎりと力の膠着を続けながら、ラルフィリエルがガルヴァリエルを鋭く睨む。
「できない筈だ。私を滅ぼせば、私の中の“ラルフィリエル”も共に滅ぶ」
「!」
ガルヴァリエルから嘲笑が消え、表情が凍る。その恐ろしい程に整った冷たい顔にラルフィリエルが震えた瞬間、彼は左腕を振り上げて彼女をふり払い、黒い光でさらに追い討ちをかけた。
「くっ」
体勢を立て直そうともがく彼女を黒い光が貫く前に、エスティがその光を弾く。だが次々に矢のように放たれる光は、彼の肌を容赦なく裂いた。
「また……また、貴様らはラルフィを利用するのか!」
「利用してるのはどっちだ」
怒れる神に、だがエスティもまた静かな怒りを返した。
「復讐を口実にして、てめぇも八つ当たりしているだけじゃねぇのか」
「黙れ!」
ガルヴァリエルが一瞥しただけで、エスティの足元が弾け跳ぶ。
崩壊の速度を増す城、その瓦礫からラルフィイリエルを庇いながらエスティは油断なく剣を構えた。
「全ては貴様ら、人間が起こしたことだ」
冷たく吐き捨てる、その怒りと呼応するように黒い光は荒れ狂って肌を裂く。爆発して城を壊し、その瓦礫を二人にあますことなく降り注がせる。やがてはその威力をも増し、凄まじい力の奔流が体をかすめていく。
ラルフィリエルは戦慄した。
この力が命中して、命が失われるようなことがあれば――いや、生命力が弱まって制御の力を失くせば。
自分も、エスティも、この城にいるリューンもシレアも、ミラやイリュアも。戦場にいる、アルフェスやルオを始めとした多くの人間達も、全て――
世界が滅ぶと言われたときよりもずっと、その重圧は激しく、現実感は大きい。
ガルヴァリエルの力は、徐々に膨らんでいく。それは、怒りのためだろうか。だがその為に自分を危機にさらせば、大事なものもまた危機にさらされるということに、彼は気付いているのだろうか。
だがラルフィリエルの危惧とは裏腹に、攻撃を受けているのは専ら城の方だった。その瓦礫も充分な破壊力を持つとはいえ、シールドを張れば致命傷は避けられる。凄まじい力の流れがエスティやラルフィリエルに狙いを定めることはない。
(――わざと? これぐらいで私やエスティは倒せない。わかっていて……?)
訝しんでふと皇帝をみやると、紫水晶の視線がぶつかり合う。
「……ッ」
そこに見たのは、嘲笑でもなければ冷笑でもない。まして、怒りでも憎しみでもない。
それを形容するなら、優しい微笑み。
「我が御名を以って、命ず」
はっとラルフィリエルが立ち止まる。その微笑を模った唇から冷たい声が紡がれて、顔を上げたときにはもうそれは嘲笑に変わっている。
「破壊を、ここに」
全身が総毛立つ。
感じる――
世界中の、全ての精霊が、集う。