12.神の使い

 ――静か。
 静寂の中を、四人はケイパポウが創り上げた黄金の道の上をひた進む。だが道は思ったより長く、景色の変容もないその歩みに、エスティからぼやきが漏れるのは必至だった。
「ったく、どこまで続いてんだよ、この道……」
 うんざり顔のエスティだが、シレアも似たようなものだ。決戦前に悠長なことかもしれないが、ただ変わらぬ景色を行くことにはいささか飽きた。これでは高揚していた士気も下がるというものだ。
「なんか、先もずーっと道が見えるだけだし。永遠に続くんじゃないかって気がしてくるよね」
 だがシレアがそれを言い終わるか終わらぬかのうち、ラルフィリエルがふと歩みを止める。顔に疑問符を浮かべながらシレアはラルフィリエルの方を振り仰いだが、彼女はただ厳しい顔で前方を見つめるのみで、変わりに口を開いたのはリューンだった。
「そうでもないみたいだよ」
 先ほどのシレアの言葉に対する返事だが、穏やかな口調と裏腹にその声には緊張がある。
 その意味を読み取って、エスティが顔を上げた刹那、突如として、忽然と道が消え去った。
「――!?」
 何故、と問うことも何故かを悟ることもできず、悲鳴を上げる間もなく。
 “道”が消えたことによって、再び上も下もない空間の歪みへと投げ出され、あの五感を麻痺させられたようなあの感覚が襲ったかと思えば急に抜け。
 唐突に体に戻ってきた平衡感覚に落下していることに気付き、エスティは慌てながらもどうにかうまく着地した。間をおかずに、すぐ隣に音もなくリューンが着地し、次いでラルフィリエルが着地する。この突然の事態に、だがラルフィリエルは動揺するでもなく、ただシレアの安否を気遣うように上を見上げた。危惧した通り、シレアは歪みからバランスを崩して落ちてきたが、こちらがそれに気付いてなんらかのアクションを起こす前に、彼女の落下は止まる。その体から蒼い光が零れ、ボードを使ったのだということが知れると、エスティはとりあえず安堵の息を吐いた。
「――セルティ城だ」
 同じく息をついたラルフィリエルが、ふいに無感慨な声を出す。その言葉にエスティは足元を、そして周囲を見渡した。
 漆黒の床に漆黒の壁は、自分の姿が映るくらいに磨き抜かれている。
 シレアがボードに乗って降りてくるのを見届け、ラルフィリエルがおもむろに歩き出し、だがすぐに歩みを止める。その訳は、エスティにもリューンにも既に知れていた。
「大層な歓迎じゃないか」
 ひゅう、と感嘆の口笛を吹いて、エスティが皮肉を言う。
 あの空間を抜けて、この場所――ラルフィリエルが言うにはセルティ城内のようだが――に降り立ったその瞬間から、刺すように感じた殺気。
 その主が、闇の中から姿を現す。
「……エインシェンティア?」
 ずん、と“それ”が前足を踏み出したとき、シレアはまるで地面が揺れたような錯覚を起こしかけた。鋭い咆哮に、彼女の言葉の終わりは掻き消される。
 それでもちゃんと聞いていたらしいエスティは、だが首を横に振った。
「違う。こんな獣は見たことがないが、純粋な生命体だ」
 念のためにラルフィリエルの方を窺うと、彼女も確信に満ちた表情で頷きを返してきた。
 手当たり次第に猛獣をぶちこんで混ぜ合わせ、繋ぎ合わせて巨大化したような黒塗りの獣は、黒い壁と床に溶けそうだ。実際に溶けてくれればありがたいんだけどな、などとエスティは胸中であり得ないことを考えながら嘆息した。
「まあ、生命体でもその力をエネルギー変換して魔成すればエインシェンティアと呼べるだろうが、大体にしてそんな力の気配がない。単なる猛獣だろうが――」
「いずれにしろ、こんなものと遊んでいる時間も余裕もない。どうする」
 今にも飛び掛ってきそうなその黒塗りの獣を剣で軽く牽制しながら、ラルフィリエル。
 涎を撒き散らしながら近づいてくるが、迂闊に飛び込んではこないあたり知能も発達していそうで、すんなりと逃してくれそうもない。
 舌打ちしながらエスティは眉をしかめ、剣に手をかけたのだが――
「あたしが、やるよ」
 ぴょこん、とボードを飛び下り、シレアが声を上げる。
「こいつはあたしが引き受けるから。その間に、エス達は先に行って」
 とんでもないことをさらりと言って、あまつさえシレアは笑った。
「お前、何言って」
「だってただの猛獣なんでしょ? なんとかなるって」
「――伏せろ!!」
 問答を交わすエスティとシレアに、獣を牽制していたラルフィリエルから鋭い警告が飛ぶ。
 はっとしてそちらを見ると、獣の口の中で紅いものがちろちろと陽炎のようにゆらめいている――
『“地を駆る透明なる者よ! 此処に寄りて壁と成さんッ!! 防護陣(プロテクション)ッ”!!』
 反射的に――誰が動くよりも早く、シレアは叫んでいた。
 無論、自分がやらなくてもエスティやラルフィリエルの方が、もっと効率よく回避できただろう。だけどシレアには、自分がする必要があったのだ。
 彼らの力を少しでも温存するため、そして――自分が戦えることを示す為に。
 獣が吐き出した逆巻く炎が、シレアが展開した風のシールドに阻まれて霧散する。
「ほら、大丈夫ッ! だから、エス、行って! 迷ってる時間なんかないよっ」
 こうなったら、彼女は意地でも残るだろう。どう説得するか考えあぐねているエスティの横で、何かがひゅっと地を蹴った。

『“安寧の夜に堕つもの! 我が手に寄りて刃と成せ!”』

 威嚇するようにふりかざされた獣の手を蹴り、さらに高く跳躍する彼の手に、闇が駆ける。
「リューン!」
「お兄ちゃん……!」
 エスティとリューンの声が継いで聞こえ、リューンは僅かに口の端を上げた。そして獣の顔と同じ高さまで跳躍し、その手に現れた闇の刃をその右の目につき立てる。
「隻眼ってさ。死角が多くて意外と戦いにくいよ?」
 ズシャ、と剣を引き抜くと溢れ出た血は真紅で、リューンは顔をしかめた。悶絶し、払い落とそうと振り上げられる前肢を避けて飛び下り、再び剣をかざす。
「エス、ぼくも残るよ。シレア一人じゃ心配だから」
「二人でも心配だ」
 そう言ったリューンに、エスティが表情を凍らせる。きっぱりと返されてリューンは苦笑した。
「すぐ追いつくよ」
「わりぃけど、お前のそれはもう信用できない」
 だいじょうぶ――そう言って帰ってこなかったあのときのあの後悔が蘇る。意固地になるエスティに、ふわりとリューンは優しい笑みを見せた。
「もういちどだけ信じてよ。相棒でしょ?」
 片目を失って悶えていた獣に、再び闘志が宿る。それを見てリューンはエスティから視線を外すと再度獣と対峙した。
「約束は守るよ。そのためならもう一度悪魔になってでも」
 襲い来る獣の爪を漆黒の刃で受ける。その姿にはっとする。
 ――傭兵をやめてから棄てた剣を、今彼は振るっているのだ。
 過去と向き合うことが、彼に何よりもの苦痛をもたらすことは知っている。それでも、彼は剣を取ったのだ。それは――
「だから、エス。シェオリオを、頼む。守ってあげて」
「お兄ちゃん……」
 ラルフィリエルが、不安げに小さく呟く。だけど、エスティが頷くと、彼女は剣をおさめた。
「行こう、ラルフィ。リューン達は大丈夫だ」
 あのときとは違う、強いジェードグリーンの輝きを彼は信じた。ラルフィリエルもまた頷いて、そしてシレアを振り返る。
「気をつけて。“お姉ちゃん”」
「ありがと。ラルフィも、気をつけてね」
 にこっと笑い、走って行く二人を見送りながら、シレアはスペルを詠みはじめた。そして攻防を続けるリューンと獣の方を伺い、リューンの斬撃の合間に魔法を撃つ。
「戦いやすい」
 組んで戦ったことなどないシレアとの間で、剣と魔法の連携が上手くできあがっていることにリューンが感心していると、シレアはにこっと笑った。
「だって、兄妹だもん」
 リューンの斬撃が綺麗に獣の胴を薙ぐ。だがその固い皮膚は、なかなか致命傷に繋がらせてはくれず、思ったよりも長引きそうだ。
「ありがとう、お兄ちゃん。ラルフィが心配なのに、残ってくれたんでしょ?」
 獣が吐き出したブレスを再びシレアのシールドが弾く。その合間に振り下ろされたリューンの剣を、獣の爪が受ける。膠着。
「ぼくにとっては、お前も大事な妹だ。血なんか繋がってなくても、ぼくはお前を本当の妹だと思ってるよ」
 リューンの剣が、獣の爪を跳ね上げ、さらに踏み込む。シレアが援護の為のスペルを詠む。

 ――本当の妹、か。

 戦いに専念しながら、でも少しだけ――シレアはリューンの言葉を頭の中で反芻した。

 ――ちょっと寂しい気もするけど、これでいい。だってそれ以上に嬉しいから。
 お兄ちゃんはお兄ちゃんのままでいいんだよね。与えられた、この記憶通りに。

(だから、この気持ちはしまったままでいるよ。いつか思い出になるまで――ね)