9.明日の向こう
「……お前ら何やってんだ?」剣のぶつかりあう音が聞こえ、不審に思って見に来てみたのだが、戦いは既に終わった後のようで――
大の字になって地面に寝転がる大男と、荒い息をつきながら地面に座り込む小柄な少女を見、エスティは半眼で頬を掻いた。
「よう、エスティ。いやぁ、ちょっくら決着をな」
首だけを起こしてルオがいつものように豪快に笑う。ラルフィリエルも顔をあげると苦笑した。
「いつか、手合わせをすると、約束していたから」
「ああ……あれか」
ラルフィリエルの言葉に、エスティも思い出す。確かにラティンステル大陸を出るとき、ルオはラルフィリエルが同行することの条件としてそんなことを言っていた。
「だけど、何もこんなときに……」
呆れた声をあげると、ルオは首を起こしたままで――どうでもいいが、起き上がるよりもその体勢の方が疲れると思うのだが――極めて真面目な声で言葉を返してくる。
「いや、どうしても今だ」
ようやく首を下ろすと、よっこらせ、となんともオヤジくさい掛け声と共に体を起こす。
「わりぃ、エスティ。俺、一緒に行けねぇわ。スティン軍と共にラティンステルで戦うぜ」
地面に胡坐をかいたまま、その良く通る声でルオが告げる。それはスティン騎士団長の彼にしてみればごく当たり前のことであるのだが、咄嗟にエスティは返す言葉を失った。
「だから、戦場に出るのに悔いのねぇように、今戦いたかったんだ。俺は、どうしてもカオスロードと戦ってみたかった。かつてその機会が訪れたとき、戦うべきときに、戦えなかったから。だから、どうしても」
独白の様にルオが言葉を続け、そしてそれが終わる頃には、エスティも動揺と驚きをうまく処理する。
「そうか。……で、どっちが勝ったんだ?」
問うと、ラルフィリエルとルオは顔を見合わせた。そして同時にこちらを向き直って、肩をすくめる。
「や、決着をつけようと思ったら無事に済まなそうだったからこの場は保留だ」
「そりゃ助かる。明日になって二人が重症だったらシャレにならないからな」
苦笑してやると、ルオは愉快そうに笑った。そうしてひとしきり笑うと、剣をかついで立ち上がる。
「じゃあな、姉ちゃん。俺の我儘に付き合ってくれてありがとな。……さて、次は兄ちゃんにでもケンカ売ってくっかな〜」
「おい、戦いたいのは結構だが、あんまり周りを消耗さすなよ」
立ち去っていくその背に釘を刺すと、ルオは振り返らぬままひらひらと手を振った。この男が忠告に従うとも思えないが浅はかなことをするほど馬鹿でもないだろう。溜め息をつきながら、その大きな背を見送る。
「……アルフェスか。あいつも、来ないって言うかもな……」
騎士隊長だというなら、彼も同じだ。ランドエバーが進軍していると言うのに、放ってはおかないだろう。しかもガルヴァリエルの手に落ちているというなら尚のこと。ルオとアルフェス、この戦力を失うのは正直相当の痛手だ。二人が居れば、それこそ千の兵にも値しただろう。
「まあ、仕方ないか」
浅く息を吐く。
だからと言って、二人を無理に連れて行くわけにもいくまい。二人だけでなく、望まぬ者は誰でもだが。それに、頼りにしていて信用をおいているからこそ、危険な目に遭わせたくない気持ちもあった。自分がそんなことを思うのは思いあがりかもしれないが。
(――いや、思いあがりだな)
自分自身まだ気持ちの整理がついているとは言いかねる。
エスティは座ったままのラルフィリエルの傍に歩み寄ると、その隣に腰を降ろした。
「すげぇ星だな」
足を投げ出して空を見上げると、目がチカチカするくらいの星に仰天する。思わず感嘆の声をあげたエスティに、つられてラルフィリエルも夜空を見上げた。
「――エスティ」
「ん?」
揃って空を見上げたまま、ラルフィリエルに呼ばれて何気なく返事をする。少しの間の後、彼女が続けた言葉は、何度も聞いたものだった。
「もしも。――明日の戦いで、もしものときは、そのときは……私を」
「もうそれは聞き飽きたって。消さないって言ってんだろ? 何度も」
ラルフィリエルがこちらを向いたのが気配で解った。だが視線の場所は変えないまま、やや苛立ちながら言う。苛立っているのは別に怒っているからではないのだが――
だが彼女はそう捉えたかもしれない。
少し気になって、彼女の表情を窺おうとほんの少し目線をずらすが、その頃にはもうラルフィリエルは空を見ていた。その様子に、彼女にはわからないように小さく溜め息をつく。
(なんつーか……やっぱ、リューンに似てるよな)
信用されてないわけではないとは思う。けれども常に一歩線をひいた位置にいるというか、なかなかこちらに踏み込んでこようとしないその態度は、以前のリューンに良く似たものがあった。だから慣れているといえば慣れているし、不快と思う程でもない。
ただ少し、苛立つ。
「――あのな、」
「エスティ」
何かを――具体的に何を、というわけではないのだが――言いかけたのを遮って再び名を呼ばれる。相変わらず、ラルフィリエルは星を見上げたまま。
「……何だよ?」
応えてもラルフィリエルはこちらを見てはこなかった。そのまま彼女は訥々と語り出す。
「私は、幸せだ。この場所はとても温かい――そして心地良い。……私は、ずっと消えてしまいたかった。この重圧から解放されたくて、血まみれの過去を清算したくて。でも今は、この場所を護りたいんだ。世界を護りたい思いよりもずっと、護りたい人たちがいるから。だから、本当に消えてもいいと思うんだ。それでこの場所を護れるなら、私は幸せだ」
ふいに彼女は立ち上がった。
こちらを見下ろすラルフィリエルを月明かりが照らし、アメジストの瞳がそれを受けて煌く。冷たいが柔らかな風が、さあっとラルフィリエルのシルバーブロンドを撫で、そしてエスティの長い黒髪まで一緒に宙に遊ばせた。儚く微笑むラルフィリエルは、だけど本当に幸せそうで、穏やかで、満ち足りていて、だけど、だから――
立ち上がる。
紫水晶の瞳が月の光を弾くと、それを灼きつくしてしまいそうな真紅の瞳と対峙して、ラルフィリエルは震えた。畏れではない。それよりは真逆と言っていい感情に、知らず彼女は手を伸ばす。
その彼女を滅ぼす存在の筈の少年は、差し伸べた手を掴むでもなく。
ただそのまま、彼女の全てを抱きしめる。
シルバーブロンドと黒髪が、交じって一緒に風にたなびいた。
「エスティ……どうして……」
ラルフィリエルの伸ばしたままの手が所在無く、宙を迷う。
「なぜ……私を消さなかった。あのとき、レグラスで……私を殺さなかったの」
耳元で、ラルフィリエルが囁く。
「……消さなかったのは、お前がリューンの妹だったからかもしれない。オレがリューンから大事な人を奪うなんて、そんなのはごめんだったし……それに、古代の要らない力を押し付けられてその力に翻弄されてる点では、オレと同じだったから。いや……オレよりもお前の方が、ずっと苦しかっただろう。だけど、それを知る前は――あのとき、レグラスでは――本当に、解らないんだ」
ただ、泣き出しそうな彼女の顔が、頭から離れなかっただけ。運命なんて言葉を出せば、陳腐になってしまうから、ただ苦笑するしかないけれど。
惹かれたのは、同じで真逆の境遇のせいか。古代の力が惹き合わせたのか。それとも――
「いや……あのとき殺さなかったのも消さなかったのも、単に惚れただけかもな」
「え?」
頭をすっぽりと抱きしめているためか、聞き取れなかったのだろう。聞き返すラルフィリエルに、手の力を少し緩めて、返すのは違う言葉だが。
「もっと幸せになるよ。この場所で、お前は」
顔を上げてこちらを見る彼女に顔を近づけ、囁く。
「この戦を終わらせて、剣も戦いもない場所で、涙も哀しみも忘れて笑えるよ。オレはお前のそんな笑顔が見たい。お前だけじゃなくて、リューンにも、シレアにも……他の皆にも、笑っててほしいし、オレも笑っていたい。だからお前に生きてて欲しい。お前を消して終わりになんてしたくない。それじゃ理由にならないか?」
ラルフィリエルはその問いには応えなかったが、彼女の手が自分の背を抱いたのがわかった。
「……エスティ、貴方は、敵だ。それ以外の何にも成り得ない筈なのに。この感情の名前が、わからない」
「わかるまで、傍にいる」
もう一度、ラルフィリエルを抱く手に力をこめる。
「明日も、明後日も、その次も……ずっとだ」
だから終わりになどしない。
その為なら世界をも護るし神をも滅そう。
力ならここにある。それは、古代の遺物でもなく、備わる魔力でもないけれど、ここにある。
――確かに、ここにある――
だから、迷わず行こう。明日の向こうに行くために、明日へ。