2.巫女の祈り

「とりあえず今からは無理ね」
 イリュアにサラリと言われて、エスティは思い切り脱力した。彼だけでなく、今この場にいるほかの面子も似たような表情だ。
 スティン王宮の中庭、ラティンステルへと進軍する志願兵達が列を成すその片隅。その指揮を抜けてきたルオに、アルフェスの介抱にようやくひと段落がついたラルフィリエルとミルディン、それにシレアにリューン、イリュア、そしてエスティといった顔ぶれだった。さすがにアルフェスはまだ大事をとって休ませており、この場にはいなかったが。
 とにかく戦意の高揚を削ぐような彼女の言葉にそれでもエスティは二の句を告いだ。
「何でだよ! この戦をやめさせたいってあんだけ主張してたのはあんたじゃねーか……」
「それについては意義はないわよ。少しでも早くガルヴァリエルを倒す必要があるわ」
「ならどうして! ランドエバーを始め、既に他国は進軍を始めてる! スティンもだ! 急がないと間に合わなく……」
「だからよ!」
 ずい、とエスティに詰め寄り、イリュアが彼の言葉を完全に封じる。
「短気な男はモテないわよ?」
「茶化してる場合じゃないだろ。真面目に答えてくれ」
 苛立ちを含んだ彼の言葉に、イリュアは肩をすくめると意味ありげな視線をラルフィリエルに送った。苦労するわね、と言いたげなその表情から、その意図を正しくは汲んでいないのだろうが――、
 ラルフィリエルが溜め息を吐く。
「……ラティンステル大陸までどうやって行く」
 ただ一言吐き出したその言葉で、エスティもようやく気付いた。
「そう。船で悠長に行って戦場突っ切って帝都に行くよりは、私とラルフィちゃんのテレポート・スペルで行った方が合理的よ。だからとりあえず今からは無理。まだ完全に力が回復していないから」
 あまりに道理な言葉にエスティは押し黙り、代わり諭すようなイリュアの言葉は続く。
「それにミラちゃんにしろリューン君にしろ、ベストな状態とは言えないでしょ? ラト君やケパちゃんが力を使うことは具現を成す術者にも負担を与えるし、リューン君はエルダナで精神世界とはいえガルヴァリエルと戦った――」
 交互に見やられてミルディンは目を伏せ、リューンは苦笑した。全く彼女の言う通りだ。
「ただでさえ勝算のない戦いに、焦りは禁物よ。こうなった以上は冷静に勝つことだけを考えなさい」
 相変わらず茶化すような彼女の言葉は真剣味に欠けるようにも見えるが、そこに僅か隠れた彼女の本気の忠告に気付きエスティは息を吐き出した。
 そうだ確かに焦っていた。
 イリュアもまた焦っていただろう、だが状況を正しく把握して気持ちを切り替えている。たとえ一瞬の焦りでも迷いでも、それが命取りになる。
「あと一日」
 人差し指をぴっと立てて、一言、きっぱりとイリュアが告げる。
「OKね? ラルフィちゃん」
「ああ」
 あと一日で、力をベストな状態までもっていけるか――、そう問いたいのだと今度は正確に理解して、ラルフィリエルは目を細め短く答えた。満足気に頷いて、イリュアはエスティに視線を戻した。
「あと一日よ。それまでに最高のコンディションにしておくことね――体も、心も。そうでなければ、死ぬわ。確実に」
 “死”という言葉をわざと強調し、イリュアが各々を、その何もかもを見通すような金色の瞳で強く射る。その瞳を、強い意志で以って見返せるものは、まだ誰もいない。
 だが目を逸らすものも誰もいない。
 夕暮れの赤が青空にこぼれ始め、誰も黙ったまま、最初にルオが踵を返した。それを口火に、それぞれがその場を去ってゆき、最後にエスティとイリュアだけが残った。
 じっとエスティを見つめるイリュアの瞳にも表情にも、今はいつものおどけた風もなく、やけに大人びた美しい表情で、だが彼女は凍える声を紡ぐ。
「……ラルフィリエルを消す気は、やっぱりないのね」
「ない」
 真っ直ぐ彼女を見返す真紅の瞳に、その瞬間だけは一瞬たりとも迷いはない。
「最初に言っておく、オレは世界のために戦うんじゃない」
 彼から発せられる、零れ落ちるくらいの強い意志に圧倒されそうになり、我知らずイリュアは息を呑んだ。だがそんな威圧はすぐに緩まる。
「……それほどお人好しじゃないんだ。オレもただの人だから。大事なもののためにしか戦えない。――それは間違い、かもしれない。イリュア、オレを選んだのは間違いだったかもな。つーか、選択肢がなかったのか」
 瞳を細めて笑みすら浮かべ、去っていくその背にイリュアは呟く。

 誰が彼を選んだか。
 手を下したのは私。
 だけどその道を選んだのは彼。
 彼が選ぶとわかっていて彼に力を与えたのは誰?
 それそこ神か。
 だとしたら神とはなにか。
 それとも神をも狂わせる何かか。

 いや結局は――
 ただ誰もが自分の信じるがまま選び行動した結果に過ぎないのではないか。

「あなたを信じるわ」

 信じた自分を信じる為にも。
 自分が犯した過ちの全てをただの罪にしないため。願わくは、彼もまたそうであればよい。

 誰にともなく祈りをこめて、少女はあてもなく踵を返した。