スイート・スイート・パイ


 一方その頃、アトリエに帰ったロロナは、ステルクが一向に訪れないことについておろおろしていた。
「ね、ホムちゃん。ほんとにほんとに、ちゃんと伝えてくれたんだよね?」
「先ほどから何度もそう申し上げております、マスター」
「うん、そうなんだけど、で、ステルクさんはお昼食べたら来るって言ってたんだよね?」
「はい」
「もう夜だよね?」
「彼は王国騎士です。何か急用ができて、今日は来られなくなったという可能性が考えられます」
 それも先ほどから何度も述べているのだが。
 今のロロナの耳には、どうも届いていないらしい。
「ホムの言うことを、マスターは聞いてくれません。グランドマスター、どうしたらいいですか?」
 乏しい表情を僅かに曇らせ、ホムは自身がグランドマスターと呼ぶ人物を仰ぎ見た。話を振られて、長い艶やかな黒髪をした女性が、くいと眼鏡を持ち上げる。彼女はさっきからおろおろとアトリエ内をいったりきたりする弟子を見て、面白そうににやにやと笑っていた。
「ん? そうだなぁ。このまま眺めているのも面白いが、いささか飽きたといえば、飽きたか」
 そう言って、彼女の師は――アストリッドは、にやにや笑いを納めると、つかつかとロロナに歩み寄る。そこでやっと師の存在に気付いたロロナが、うるんだ目で彼女を見上げた。
「あ~~、ししょ~~~! ううっ、どうしよう、約束してたのにわたしがいなかったから、ステルクさんきっと怒って帰っちゃったんだぁ~~!」
 ――そんなことはないだろうが、という本音を飲み込み、ついでににやにやしそうになるのもぐっと堪えて、アストリッドは至って真剣な顔をした。それくらいの芸当はアストリッドにとって造作もない。それが他者から見てどんなに下らないことであれ、自分が面白いと思うことについては努力を惜しまない。それがアストリッドの天才たる所以……かもしれない。
「そうだな。あいつは生真面目な男だからな、約束を破るなど、絶対に許さないだろうな」
 嘘である。ロロナは気付かないようだが、約束を破ったのはどちらかといえばステルクの方だ。生真面目なのは本当だが、だからこそ彼は自分を責めることはあれど、ロロナに怒るようなことは決してないだろう。来られなかったのは、ホムの言う通り、急な仕事で止むを得なかったのだとアストリッドも思っている。
 しかし、こう言えばロロナはさらにあたふたするだろう。さて、どんな面白いリアクションをしてくれるのかと内心わくわくしていたアストリッドだが、彼女が見せた行動は――アストリッドが期待する、どれとも違っていて。
 だが、期待以上だとも言えた。
 ぼろぼろと、大きな二つの瞳から、大粒の涙を流したのだ。
 ふぇぇぇぇん、と可愛い声を上げて泣き叫ぶなら、まだ予想の範囲内だった。だがロロナは声もなく泣き、これにはアストリッドも内心少し驚いた。
「どうしよう……ステルクさんに嫌われちゃった……」
 やっと掠れた声を絞り出したかと思ったら、これである。
「……これは参ったな」
「グランドマスターのせいですよ」
 放心したように泣き続けるロロナを見て、アストリッドが前髪を掻き揚げ、ぽつりと零す。すかさずホムが辛辣な突っ込みをするが、アストリッドは半眼で彼女を見下ろした。
「私のせいなものか。これはどう考えても、あの朴念仁が悪いだろう」
「なぜそんな結論になるのか、ホムには分かりかねます」
「まあそうだろうな。ところで、昼間ロロナはどこに出かけていたんだ?」
「サンライズ食堂へ、小麦粉を買いに行っていたようです」
「ほうほう! ふむふむ」
 それでアストリッドは、合点がいったというように何度も頷いた。
「うむ、やはりこれはステルケンブルクの奴が悪い。ということでホム、ちょっと使いを頼まれてくれんか?」
「……やはりホムには理解できませんが……グランドマスターのご命令であれば」
 ホムが胸に手を当て、優雅に一礼する。それを一瞥してから、アストリッドはロロナに視線を戻した。
「さすがに愛弟子がしくしく泣く姿は、胸が痛むのでな」
「ホムには、グランドマスターはとても楽しそうに見えます」
 律儀に突っ込んでから、ホムはアストリッドに言付けられ、アトリエを出た。既に外は、闇が辺りを包み始めている。



 夜の帳が降りた街を、ステルクはため息を付きながらアトリエへと向かっていた。
 なんだかんだと雑務が舞い込み、結局あのあと王宮から抜けだすことはできなくなってしまったのだ。仕事が終わり次第尋ねようと考え直したものの、今度はエスティに捕まってしまったため、すっかり遅くなってしまっていた。それでもアトリエへと向かっていたステルクだったが、やはりこんな時間に訪ねるのは非常識かと思えた。
「明日朝一で出直すか……」
 そう呟いて、足を止める。しかし、街頭の光に見知った人物が映し出されて、ステルクは顔を上げた。
「――君は――」
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