08:後輩の教示


 春紀の病室を出ると、真夏は病院を出ようとしていた足を止め、自動販売機でコーヒーを買ってから今度こそ病院を出た。外に出て周囲を見渡すと、思った通り、日野が煙草をふかしている。真夏はそちらに足を向けると、日野が寄りかかっている石段にコン、とわざと音をたてて缶コーヒーを置いた。こちらに気付いていないわけはないのに日野は一向に口を開かず、仕方なく声を上げる。
「……なんで喧嘩したんですか?」
「喧嘩なんかしてねえよ」
 無視されるかと危惧したが、存外日野はすぐに答えてきた。だがやはりそれ以上は語らず、やがて煙草の火はフィルターに達して灰がおちる。火の消えた煙草を咥えたまま、ようやく日野はその先を継いだ。
「調書読んだか?」
「はい。……警視が撃たれた件ですよね? 暴力団の逆恨みだと」
「それだけじゃない。あの事件には裏がある」
 思わぬ日野のセリフに、え、と真夏は声をあげた。日野は黙って煙草を口から離すと、携帯灰皿を取り出して押し込み、二本目に火をつける。
「警視がそう言ったんですか?」
 だがそう問いかけると、日野は渋い顔で煙を吐き出した。
「言わねえよ。言わねえからイラついてんじゃねーか」
 苛立ちは彼の様子を見ているだけでわかる。二本目に火をつけたものの吸ったのは最初の一口だけで、それ以降は口をつけず、手に持ったままの煙草はゆるゆると短くなって灰へと変わっていく。
「嘘ついてんのくらいわかんだよ。身内だからな」
「嘘? なぜ警視が嘘をつかなくてはいけない――」
 言いかけてはっとする。
 裏があるということは、調書に書かれていない真実があるということだ。そして、警視がそれを知っていて黙っている――嘘をついているとすれば、その理由は。
「まさか、先輩……警察組織が絡んでいると?」
「まさかはてめえだろ。何の確証もないんだ、滅多なこと言うな。だが春紀が嘘を吐いているのは間違いない。だから俺はこの件を調べたいんだ」
 茶化すように言いながら、吸わないまま短くなった二本目の煙草を灰皿に押し込む。そのまま歩いていこうとする日野の背に、真夏は声をかけた。
「先輩らしくないじゃないですか。僕らは目の前の職務だけやっていればいいんじゃなかったんですか? それとも弟さんが撃たれたからですか?」
 責めるつもりではなく、率直な今の気持ちだった。それを受けて、日野が足を止め、振り返る。
「……春紀はな。犯罪の撲滅のためなら手段も選ばないし情も捨てる、どんな事情があっても相手が誰でも犯罪は犯罪、そういう奴なんだ。正直俺はあいつのそういうやり方が嫌いだ。そんなら警察は人間じゃなくロボットでいいじゃないか。――ああ、だが、頭の中ではそれが正しいって認めていたんだ。人としても兄弟としても俺はあいつとは相容れない。だが警察官として、その一点のみにおいては尊敬していたんだ。だから、どうしても許せねえんだ!」
 日野が珍しく声を荒げる。
 だが、彼がそうして声を荒げて憤るのを見るのは、初めてではない。
 連続痴漢事件で、今みたいに荒々しく怒鳴りつけられたのを真夏は思い出していた。あの時は随分落ち込んだが、今にして思えば、あのとき日野はこちらにではなく、自分自身に憤っていたのではないか。
 日野と弟の間にどんな確執があったのか、真夏は詳しく知らない。だが日野は、情に流されそうになる人としての自分と、警察官としての自分の間で、ずっと戦っていたに違いない。
「先輩。だったら、仕事に戻りましょう。目の前の職務を放り出して私情に流されるようでは警察官として失格だと思います」
「……」
「……と、僕の尊敬する先輩が言っていました」
 真夏がへらりと笑うと、日野の目から鋭さが消えた。そしてがしがしと頭を掻きながら、置いてあった缶コーヒーを手に取る。
「……それに、警視は自分の保身のために嘘をつくような人ではないと思います」
「……んなこた、わかってる」
 素直じゃない兄弟だ、と胸の中でこぼしながら、真夏は駐車場へと歩いて行く日野の背中を追った。