03:兄弟の確執


 逮捕や留置の手続きなどで、ようやく真夏達が一息ついた頃にはもう日が変わっていた。
「今日のところはもういいそうだ。お疲れさん」
 ぐったりと息をつく面々の前に、矢代が現れてそう告げる。だがいつもなら歓声を上げて真っ先に飛び出して行く日野が、今日は不愉快そうな表情のまま、うんともすんとも言わなかった。そしてその原因は極めて明白だ。
「警視殿も、もう結構ですよ」
 矢代からそんな声をかけられ、春紀が軽く頭を下げる。日野が「ちっ」とわざとらしい舌打ちをして、机から立ち上がった。
「ああ、腹減った。真夏、大将んとこでラーメンでも食って帰ろうぜ」
「あ、はい」
 ようやく日野が口を利いてくれて、ややほっとしながら真夏は返事をした。だが根本的なことはまだ解決していない。ちらりと真夏は春紀の方に視線を向けたが、彼は書類を整頓しており、こちらのことなど全く視界に入ってはいないようだった。
 迷った末に、意を決して真夏は声を上げた。
「あの、警視。よければ警視も一緒にどうですか?」
 げえ、と日野が遠慮のない声をあげ、真夏は顔をしかめた。当の春紀はそんな兄の様子など気にもとめていないようだったが、真夏の方には少し驚いたような顔を向けた。
「……いえ。ちょっと呼び出されていますので」
「へっ、飯が不味くならずに済んだぜ。せいぜいワンマンな指揮を絞られて来いよ」
 とげとげしい言葉を吐きながら日野が出て行く。それを見送って、春紀は嘆息した。
「あんな人と一緒に仕事するのは大変でしょう」
「え? あ、はい。あ、いや……」
 思わず肯定しそうになってしまって、慌てて真夏は否定した。結果として曖昧な返事になってしまったが、それが的確な返事かもしれないとも思う。確かに、日野の空気を読まない発言や行動には閉口するときもあるのだが、どこか憎めない。日野はそんな人物だ。嫌う者もいるが、トラブルメーカーなだけではない刑事としての顔を真夏は知っている。
「でも、僕は日野先輩を刑事としては尊敬していますよ。それに……」
 しかし、ずっと引っかかっていたことを口にすべきかどうかは、言いかけてまだ悩んでいた。日野家の問題に自分が首を突っ込むべきでないとは思う。思うが、傍から見ているとあまりに日野兄弟はギスギスしすぎていて、会話を聞いているこちらが胃が痛いのだ。だからといって自分が何か言ったところで今更どうなるものでもないという気もするし、春紀は素直に聞きそうにない感じもする。
 だが結局、春紀自身に促すような目で見られて、真夏はお節介と自覚しながらもその先を口にした。
「警視は先輩のことを甘いと言っていましたが、被疑者や被害者に感情移入して仕事ができないようではいけないと僕に教えてくれたのは、日野先輩です。先輩は、その……あんな人ですけど、刑事という仕事には誇りを持っていると思います」
 言い終わっても、春紀は何も言わなかった。黙したままの彼の視線は冷たく感じ、思わず真夏はたじろいだ。
「す、すみません」
「なぜ謝るんですか?」
 だが不思議そうに問いかけてくる声は少なくとも怒ってはおらず、ほっと胸を撫で下ろす。トラブルを好まないため、何かあるととにかく謝ってしまう癖があるだけなのだが、春紀の視線には物珍しそうな色が宿った。
「名前を聞いてもいいですか」
「あ、すみません。北署刑事課の佐藤真夏です」
「……、僕は日野の弟で日野春紀と言います。今はSITに所属しています。一応階級は警視ですが、二十五の若造ですからそうかしこまらないで下さい」
「いや、でも、僕の方が年下ですから」
 名前に突っ込まれなかったのは初めてだが、明らかに間があった。それくらいなら突っ込んでくれればいいのにとも思うが、春紀なりの優しさだと好意的に解釈することにする。
 それにしても、話には聞いていたが、一つしか違わないのに警視というのはやはり凄いと真夏は改めて感心していた。真夏はノンキャリだから警視になれるのは四十を過ぎてから、それもうまくいけばの話だ。定年まで働いてもなれない可能性の方が高い。だが春紀が真夏を見る視線もまた似たようなものだった。
「失礼ですが、大卒ですか?」
「はい、一応……」
 春紀のT大に比べれば、大学と呼べるかも怪しいところの出ではあったが。
「勤続二年で刑事ならば、あなたも十分優秀ではないですか」
「いえ……単に人手不足だっただけで……」
 恥ずかしそうに真夏が述べると、春紀は口元に手を当てて、ふう、と溜め息をついた。
「あなたは無駄に正直ですね。……その謙虚さが少しでも兄にあればいいのに」
 呆れられたのかと思ったが違ったようである。しかし、話してみると思っていたより春紀は話しやすい人物だった。よくエリート中のエリートと噂されているため、勝手なイメージを持っていたのかもしれない。
「兄が上司や後輩に恵まれていてほっとしました。愚兄が世話をかけますがどうか宜しく頼みます」
 黙ってやりとりを見ていた矢代にも視線を延ばし、春紀は頭を下げた。途端に刑事課のドアが壊れそうな勢いで開いた。
「ウルセー余計なお世話だ! テメーはとっとと帰れ! そんで早く来い真夏、置いてくぞ!!」
「あ、は、はい!」
 凄い剣幕で怒鳴られ、真夏は反射的に上着を取って、春紀は長い溜め息をついた。だが眼鏡を直して顔を上げる。
「用事が早く済んだら、行こうと思います。場所を教えて下さい」
「あ、××駅のすぐ傍の――」
「お前は来んな、飯が不味くなるっつってんだろ!」
 真夏の声を遮って日野が叫び、またも激しい音を立てて扉が閉まる。その勢いに眼鏡がずれた気がして、春紀は今しがた直したばかりの眼鏡をまた直した。
「さて……さっさと叱られてくるとしましょうか」
「ほう、冷徹非道と言われた元監察官でもそんな顔をなさるんですね」
 春紀の表情を見て、矢代がそんな揶揄をした。