07:光は霞み消ゆ


 その日、真夏と日野の仕事は、急遽野村の張り込みから内海の身辺警戒へと変わった。慌ただしく保管庫に向かいながら、いつものごとく日野がぼやく。
「ちっ、心配なら署にいればいいものを」
「嫌だと言うんだから仕方ないでしょう。今までを思えば脅迫状を警察まで持ってきてくれただけでも良しですよ」
 保管庫の鍵を開けながら、真夏がそのぼやきに答える。
 警察まで相談には来てくれたものの、安全の為に署に居てくれという申し出は内海本人に却下されてしまったのだ。曰く、ガードまでされるのはどうも大げさな気がするとのことだが、警察としては今夜何かが起こるやもしれないのに放置しておく訳にもいかない。
 念のために拳銃を持っていけ、と矢代に指示されたので、保管庫から銃を取り出してホルスターに差し、またバタバタと署を出ると二人は急ぎ内海を追った。
 とくに何事もなく日中が終わり、いよいよ日が沈むと矢代とも合流して、真夏達は三人で内海のアパートの傍で張り込みを行っていた。大事にしたくないという内海の意向を汲み、警備に当たっているのは他数名の刑事だけだ。それからも刻々と時間が過ぎ、既に深夜2時を過ぎている。日野はさかんにあくびを繰り返し、後ろの席からは寝息が聞こえている。真夏が眠気覚ましのタブレットを口に放りこんだ丁度そのとき、カッターの胸ポケットで携帯が震えた。
「……? こんな時間に……」
 深夜2時にかかってくる電話に、胸騒ぎを覚える。夜中に署や上司からかかってくることはあるが、今は仕事中だからそれはない。身内に何かあったのかと携帯を取り出し、だが画面に出た名前を見て真夏はいよいよ驚いた。
「……莉子さん?」
「え、お前リコチャンの番号知ってんの? 意外と手がはえーな」
「ち、違います!! こないだ莉子さんを送って行ったとき、何かあったときに警察官の知り合いがいると心強いって言われて――」
「それだけでこんな時間にかけてくるかよ?」
「だから心配で……、その顔やめてくれませんか?」
 携帯の仄かな明かりの中でにやにやと笑う日野の顔が見え、真夏はタブレットを噛み砕いた。まだ携帯は震え続けている。
「出てやったら?」
 唐突に後ろから声がかかって振り向くと、矢代が座席の間からこちらを覗いていた。
「は、はい……」
 こんなに長くコールを続けるところをみても、やはりただごととは思えない。矢代にもそう言われたので携帯を開いて通話ボタンを押した。
「も、もしもし? 佐藤です」
『佐藤さん、莉子です。こんな時間にすみません、でも時間がないんです! 今どこですか!?』
「え、あ、その、内海さんのアパートの前で張り込み中ですが……」
 あまりに切羽詰まった声だったので、つい正直に答えてしまう。馬鹿、と日野が叱責を飛ばすが後の祭りだ。
「そんなわけで仕事中なので――」
『犯人がわかったんです!』
「え!?」
 走っているのか、莉子はひどく息切れしていたが、しかし間違いなくそう叫んだ。聞こえたのだろう、日野が険しい顔をして、真夏は通話をスピーカーにした。
『こないだ、先生は嘘をついていました。だから、私、気になって』
「嘘? なんで嘘をついていたって?」
『だって、昔の教え子がすぐに分かるような人が、在校生を担任じゃないから知らないなんて変です。しかも田辺さんは学校に苛めの件で相談にまで出向いているんですよ。昔苛められてたクラスメートを今でも案じている先生が、気に留めてないわけがありません』
 誰もなにも言い返せなかった。それほど莉子の言葉は筋が通っていたのである。
『それに嫌がらせは最初先生の靴を隠したり、紐を切ったり、学校内で起きてた。生徒の可能性が高いです』
「だが突然爆弾や脅迫状に変わった。田辺の親も噛んでるってことか?」
『違うと思います。ご両親なら内海先生を狙うのは変です』
「それは田辺麻友も同じだろ」
 いつの間にか、日野までも真剣に莉子と会話をしている。矢代までもがそれを黙認していた。
『内海先生はいじめ問題と真摯に向き合っていました。保護者なら感謝すると思います。でも当事者は止められないことが許せないこともある。偽善にしか思えなくなるから』
 その理屈は真夏には理解できないが、子供時代を思い返せばわからなくもない気がした。今はもう忘れてしまったが、子供ならではの真っ直ぐな、綺麗すぎる理屈と感性が確かにあった。
『だから私、田辺さんを見てて、そしたら彼女いつもスマホを見てたから――』
 そこで急に莉子の声が途切れ、そのまま携帯も切れる。プー、プー、と規則的に聞こえる無機質な機械音に、真夏は思わず呼びかけていた。
「! 莉子さん、どうしたんですか莉子さん!」
 取り乱しかけた真夏が名前を呼ぶのを、後部座席のドアが開く音が遮る。
 車のライトが照らしだしたのは、莉子その人だった。夜中だというのにいつものセーラー服とポニーテールだ。
「学校から帰ってすぐ、バイトも休んでずっとネットを調べてたの。いじめに関する掲示板や相談室を全部覗いて、見つけた」
 息を弾ませながら莉子が差しだした紙には、とある掲示板の書き込みが印字されていた。それには正義面をした先生がムカツク、という書きこみと、それに同意する書きこみが延々と続いていたが、そのやりとりの中に、やがてこんな書きこみが混じるようになる。

 偽善者に制裁を。

「脅迫状も爆弾も全部この書きこみをした人が指示してる。日付もIPアドレスもだいたい一致してる。間違いないと思う」
「……堂々と馬鹿げた書きこみしてくれたもんだな」
 数枚に及ぶ書きこみに目を通すうち、日野が苦渋に満ちた声を零した。
「掲示板はもう消されてたけどキャッシュに残ってたの。もしこの指示の通り続けるなら、先生は――」
 莉子が後部座席から身を乗り出した瞬間、ドルン、とバイクのエンジン音がした。
「まさか!?」
 思わず叫んだ真夏の目の前を、内海のバイクが横切って行く。反射的に真夏もキーを回した。だが後部座席に莉子が乗ったままなのを思い出して、アクセルを踏む足が迷う。
「り、莉子さんは――」
「こんな夜中に置いて行くわけにも行かん」
 その迷いを見抜いたように矢代が答える。車が走り出すと、やれやれ、という風に矢代は溜め息をつき、それから改めて隣に座る莉子を見た。
「お嬢さん、名前は?」
「龍造寺莉子です」
 莉子が名乗ると、矢代は軽く目を見開いた。しばらくはサイレンの音と、内海の逃走を無線で伝える日野の声だけが車内に響く。
「龍造寺……、もしかして君は――」
 ふいに零れた矢代の声は、だが急ブレーキによって途切れた。内海が急に向きを変え、歩道を逆走したのだ。
 単車と車では分が悪い。らしくなく舌打ちして、真夏はハンドルを切って右折した。矢代と莉子の会話もサイレンの音も、もう耳に入ってこなくなっていた。