05:打算的な昼行灯


「弟っすよ弟! 絶対弟だって!」
 全く埋まっていない書類を前にして、日野が椅子にもたれかかりながら叫ぶ。
 席にいた巡査部長が渋面で彼を睨むのに、日野ではなく真夏がびくっと首をすくめた。
「……でも、先輩、動機はなんなんですか。僕はあの兄弟、そんなに仲悪くは見えなかったですが」
「バッカ、そりゃお前、チジョーのもつれに決まってんだろうが」
 暗に注意を促す為に、あえて真夏は声をひそめて話しかけたのだが、やはり日野に気に掛ける様子はなくそのままのボリュームで答えてくる。
 真夏は小さく嘆息しながらも、何故そこまで日野が断言するのか気になって、再び問いかけた。
「痴情? なんでそんなこと分かるんですか」
「池本兄の彼女、十中八九弟のモトカノだぜ。優秀な兄弟ってただでさえ鼻につくわけよ。そんな中、彼女まで取られたら殺意も沸くんじゃね?」  まぁ俺は取る方だったけどな、と悪びれず日野が付け足し、ますます査長の眉間の皺が増える。真夏は助けを求めるように係長の方を見たが、彼は反対側を向いてコーヒーを啜っていた。味方はいないらしい。
「……でも、弟さんは例のタバコを吸ったらしいじゃないですか」
「んなの兄が庇ってるに決まってるだろ。兄ってーのはそんなもんなんだよ。弟に疎まれていると知りつつも、下を気に掛けているっつー、なんての、麗しき兄弟愛?」
「や、弟が例のタバコを吸ったのは本当だよ」
 真夏も呆れて書類に目を戻したところで、まったく違う方向から急に話に加わる声があった。これには真夏だけでなく、日野も驚いたらしい。声の方を見ると、今までまったく存在感を示していなかった鑑識の通称ナベさんが、皺の増え始めた小さな顔をひょこりと上げた。
「DNA鑑定の結果、車の灰皿に残されてたタバコに付着していた唾液は間違いなく弟のもんだった。池本秀一の話は本当だ」
「DNA鑑定? なんでそんなこと……」
「毒が出た段階で、車の中も調べたんだけどな。そんときヤッシーに頼まれてな」
 ナベさんの思わぬ言葉に、真夏と日野の二人が揃って矢代を振り返る。
 彼はまだ椅子にふんぞり返ってコーヒーを飲んでいる。
「まさか係長……、こうなるって分ってて?」
 つい嫌いな言いまわしを使ってしまいつつ真夏が声を上げると、矢代はこちらに目を向けて、にやりと口の端を持ちあげた。

「おかわり」

 ■ □ ■ □ ■

 署を出て車に乗り込む頃には、渋面になっていたのは日野の方だった。
「あンの昼行灯め……、自分で調べてるなら言えっつーの」
 ブツブツと零しながら、既に短くなったタバコを携帯灰皿に押し込んでいる。そんな日野を見て、真夏はエンジンをかけながらまあまあ、と彼を諌めた。
「でも、すごいです。係長自ら個人的に捜査するなんて。彼、相当なキレ者ですよね」
「キレ者? ああいうのは昼行灯とかなまずってゆーんだぜ」
 日野は相変わらず不機嫌そうに助手席の窓から外を見ていたが、パワーウインドに映った口元は笑っている。それを見て真夏は苦笑すると、車を発進させた。とりあえず、弟にも例のタバコを兄から貰ったときの詳しい状況を確認しようということになり、彼のマンションに向かっている。
 しかしその途中、真夏は見知った顔を見つけてうとうとしていた日野に声をかけた。
「せ、先輩……」
「ん? おお」
 起きてすぐに、日野もこちらが何を言いたいのか気付いたしい。手元のスイッチで窓をあけると、日野はそこから身を乗り出して、よう、と片手を上げた。
「リコチャンじゃないの。俺に用?」
 自転車でこちらと並走していた莉子が、日野をまねて片手を上げる。
「こんにちは。とくに日野さん個人に用はないですけど、最近顔見せてくれないなーって」
「なぁんだ営業か。連れないな〜」
 真夏は車を歩道に寄せて止め、ハザードを炊いた。車が止まると、莉子は日野を押しのけて窓から首をつっこみ、真夏にも挨拶をする。
「佐藤さんもこんにちは。どう、事件、あれから進展あった?」
 そんなことを問われ、日野の手前真夏は気まずそうな顔をした。案の定、日野が呆れたようにこちらを振り返る。
「何お前、一般市民の女の子と事件の話しちゃってんの」
「いえ、その……、莉子さんがあまり頭がきれるので。前の痴漢事件覚えてますか? あれも僕らよりずっと先に犯人のあたりをつけていましたし、今回も池本が倒れた段階で、彼女はタバコだと……」
「フーン、女子高生探偵ってわけだ」
 意味ありげに日野が莉子を見上げ、莉子は窓に突っ込んでいた首を元に戻すと、困ったように苦笑した。
「そんな大層なものじゃないですよぉ。ただ、ちょっと気になって。タバコだとアリバイを作るのに便利だなぁとは思ったんですが、どんな順序で吸うかなんてわからないじゃないですか。アリバイ工作に使うには危険かもなぁーって」
 莉子の言葉に、日野が表情を変える。同様に、真夏もまた感心していた。今まさに、その問題に突き当たっていたのだから無理もない。やはりこの少女はいつも、一歩先を歩いている。
 それを聞いて、今度は日野が逆に身を乗り出したところで、莉子の体が大きく引いた。だがそれが日野のせいではないことは、別の声の闖入にすぐに知れる。
「なにしてんだよ、莉子」
 学ランを着た男が、莉子の肩をつかんで引いている。ぷんとただよってきたタバコの匂いに、真夏はため息をついた。仕事ができたようだ。
「カレシ?」
「ぜんぜん違う」
 短い会話を交わしてから、真夏が車をおりようとするのを制して、日野が助手席を降りた。
「な、なんだよ」
 茶髪の優男がそれを見て顔を強張らせてケンカを売るが、莉子はためいきをつくと彼のタバコを持つ手をつかんだ。
「タカシ、制服でそんなもの吸ってるとさ、オマワリさんに捕まっちゃうよ?」
 莉子に見上げられて、タカシと呼ばれた男子高校生がたじろぐ。
「オマワリなんてどこに……」
「ここにー。ごめんねー、目の前で吸われたらオジサンも仕事しないわけにいかなくてさ。というわけで手に持ってるやつとポッケに入ってるやつ、出して下さいな」
 がしがしと頭を掻きながら、日野が片手をすっと差し出す。学生服の少年がためらっているうちに、莉子は勝手に学ランに手を突っ込むと内ポケットからタバコの箱を出し、日野に渡した。
 仏頂面の少年の前で、日野がその箱を捻ろうとしたその間際。
「待って、日野さん!」
 鋭い声で莉子がそれを制止する。そして驚く日野の手からタバコの箱を奪って中をまじまじと見、それをタカシの前に突きつけた。
「ねえ、これ、何!?」
「え? 莉子しらねえの? ジンクスだよ」
 そうすると願いが叶うんだぜ、と得意げに話すタカシの声は、もう莉子には届いていなかった。