05:ラーメンと店主


 真夏が署を出る頃には、時間は午後十時を回っていた。なんだかんだと雑務に追われていたのだが、今の真夏にはすることがある方が落ちついた。七時を回った頃、日野が退勤したときは、正直ほっとしたものだ。だがその所為で、仕事は難航して遅くなった。
 駅に向かう途中で腹が鳴り、そういえば昼食も夕食も取っていないことを思い出す。昼は日野ともめたせいで食欲がなく、夜は雑務に追われて暇がなかった。正直今も食事をする気分ではなかったが、さすがに朝から食べてなければ感情で空腹はごまかせない。
 転勤にしてきたばかりでこの辺りの店に明るくない真夏は、自然あのラーメン屋に足を向けていた。日野がいるかもしれないと思うとためらったが、七時に一人で署を出た日野がまだ店にいるとは考えにくい。それでも、真夏はそっと店内を窺って、日野の姿がないのを確認してから立てつけの悪い扉を押した。
「あっ、佐藤さん! いらっしゃい!」
 こちらに気付いた莉子が、水の乗った盆を片手に、にこりと笑う。
「あれっ、まさか一人〜?」
 からかうような口調を見ると、そんな言い方をしたのはわざとだろう。聞き飽きている揶揄も、可愛い女の子に言われると何故か違って聞こえる。落ち込んでいた気分がほんのすこしだけ和らいで、真夏はやあ、と片手を上げた。
「どっちにすんだ、兄ちゃん。まさかラーメンか?」
「そんな無理に使わなくていいですよ。……ラーメンにします」
 茶化してくる店主に苦笑しながら答え、それからちょっと考えて、真夏はビールも注文した。すぐに莉子が中瓶とグラスを持ってきて、栓を開ける。
「良かったら注ぎましょうか?」
「えっ……い、いいですよ。自分でやります」
「まあ、いいからいいから」
 そう言って莉子が瓶を持つので、真夏はあたふたしながらグラスを持った。若い女の子と話す機会などないので、どういう対応をしていいのかわからない。だがそれより今は、店主の睨みの方が怖かった。
「佐藤さん、なんだか元気ないですね?」
「えっ……、そ、そう?」
「それに、こないだはビール苦手そうに見えましたけど。何かあったんですか?」
「いや……」
 注がれたビールをぐいっとあおる。独特の苦みが口の中に広がった。やはり旨いとは思えないが、莉子がまた瓶を傾ける素振りをするので、真夏は空のグラスを差しだした。
「僕、やっぱり刑事向いてないんだろうなあ。日野先輩はいつもおちゃらけてるけど、ちゃんと仕事できるし。僕だけいつもうじうじしてて、情けないです」
 またビールを一口含む。日野に怒られたことよりも、自分の情けなさが不甲斐なかった。
「もう、刑事の僕にできることはないんだ。何もできないのに、いや、何もする気もないくせに、言っても仕方ないことばっかり言って……」
 日野に怒鳴られたときは驚いて何も言えなかったが、反発心はあった。だが冷静になると日野の言葉は全て正論だと思えた。ぽつりぽつりと真夏の口から零れる言葉を聞いて、店主がにやりと口の端を持ちあげる。
「青いねえ」
「お父さん、真剣に悩んでるのにそういうこと言わないの」
 真夏がまたビールを干し、莉子は少し考える素振りを見せたが、それ以上は注がずに瓶を置いた。
「私難しいことはわからないですけど。刑事の佐藤さんでも無罪を証明する方法はあると思うなあ」
「……でも、それは検察の仕事で……」
 ぶつぶつと呟く真夏の声を、莉子のはっきりとした声が上書きする。
「真犯人を挙げればいいじゃない」
 ぽかんと、真夏は莉子を見上げた。
 彼女はそれだけ言うと、くるりとこちらに背を向け、厨房の方へ戻っていく。ぼうっと揺れるポニーテールを見ていると、ごとんという音がした。カウンターにラーメンが置かれていた。
 いただきます、と呟いて、箸を割る。テレビの声と、莉子が食器を洗う音を聞きながら、真夏はラーメンをすすった。
 真犯人を上げるといっても、須々木のときも戸川のときも、捕まったのは電車の中だ。どちらも被害にあった女の子が悲鳴を上げた。須々木は近くにいた乗客に手を掴まれ、戸川にいたっては周囲の乗客は女性だけだったのだ。
 電車の中では防犯カメラもないし、満員電車のごたごたの中では目撃者を探すのも難しい。思いつく限りのことをやり終えてしまった今、時間が経過すればするほど証拠が出てくる確率は低くなっていく。
 絶望的な気分になっていると、急にがたりと扉が鳴って、思考はそこで中断された。
「莉子! 私の時計勝手に持って行ったでしょ!」
「げっ、やばっ」
 飛び込んできたのは、二十歳くらいの女性だった。長い茶髪をきっちりと巻いた、なかなかの美女だ。彼女はずかずかとこちらに歩いてくると、エプロンで手を拭いていた莉子の腕をぐいっと引っ張った。
「やっぱり。これ彼氏に貰ったんだって言ったでしょ!? 明日デートなのに……」
「ごめーん、お姉ちゃん」
 どうやら彼女は莉子の姉のようだった。化粧と服のせいで莉子よりはだいぶ華やかな印象だったが、言われてみるとどこか似た面差しをしている。
「お父さん、私やっぱり一人部屋がいい! 莉子、私のものなんでも勝手に使うんだもん」
「やだー、そんなこと言わないでよー! 謝ってるじゃないー!」
「ちょっと、抱きつかないでよ! きゃっ、どこ触ってんのよこの痴女!」
 はっとして、真夏は顔を上げた。
 姉妹の喧嘩はかしましく続き、店主がうるさいと一喝したが、いずれの声ももう真夏の耳には届いていなかった。
 今まで考えもしなかった可能性が浮かんだからだ。
 それからはラーメンの味もビールの味もわからず、家に帰ってからも気が急いて、真夏はその夜一睡もできなかった。