終焉者は謳う 3



 ピリピリとした空気が肌を撫でる。それは何も、今日に限ったことではない。いつものことではあるのだが、今日は一際剣呑な空気が場を包んでいた。だが逆にそれが小気味よく、笑顔が絶えない。
「ただいま、父上」
 跪きもせず敬礼すらせず、ただ歩みだけを止めて階上の玉座を仰ぎ、クラストは上機嫌の声を上げた。
「クラスティオ……お前がランドエバーの王女を連れ帰ったというのは、本当か?」
「ええ」
 父の黒い瞳が、探るようにこちらを見る。それを何事もないように、クラストの水色が涼しく受け流す。
「今回は、リルステルにまで足を伸ばしましてね。セリエラ王女は噂通りのじゃじゃ馬姫だ。城を抜け出して自由都市に来ていたところに偶然遭ったのです。そして互いに一目で恋に落ちたわけですよ」
 クラストが嘘八百をしゃあしゃあと並べる。そんな空言でも、父に真偽を知る術などないから、とりあえずは受け止めてくれる。
「よもやそれをそのまま連れて帰ったのではあるまいな?」
「そうですよ。どうしてもセリエラがボクの妃になりたいというので」
 この場にセラがいたらナイフの二・三本ほど飛んできただろうか。クラストはそんなことを思いながら笑顔を深くした。
「ですから父上。ランドエバーのアルフェス陛下に取りなしてくれませんか? ボクとセリエラ王女の仲を取り持って下さいよ」
「クラスティオ。そのような強引なことを――」
「ボクがあなた以上の権力を持つのが恐いですか?」
 渋る父に、クラスティオは笑みを不穏なものに変えた。
「彼女と結婚すれば、ボクはこの国よりも遥かに強大な経済力と軍事力を手に入れるわけです。怖いですか? 怖いでしょうね――」
 言いながら、クラストは父王から視線を外すと、周りの臣下に視線を移した。目が合った者から次々と逸らしていき、満足げに微笑むとクラストは父に視線を戻した。
「……お前が私より大きな力を手にする。それを父である私が喜ばぬと思うか?」
「ありがとうございます、父上。無論、ランドエバーを私が掌握した暁には、この国の発展のために尽力する所存ですよ」
「……ランドエバーに使者を」
 控えている家臣の一人を呼びつけ、ルートガルド王が耳打ちする。それを見て、クラストはまたひとつ笑みを浮かべた。

 ■ □ ■ □ ■

 それから、セラは改めて自分の為に用意されたというこの部屋を見回した。窓に格子などはなかったが、飛び降りられる高さでなく、足をかけられるようなところも、つたって降りられるようなものもない。扉と窓以外に外に通じていそうなものはなく、部屋の中は物で埋め尽くされているくせに使えそうなものはなかった。何より、出ようとすればティルが邪魔をする。剣は没収されなかったので戦うことはできるが、ティルは手加減してやり過ごせる相手ではない。ティルを切り伏せて脱出したのでは、何の為にここに来たのかわからない。
 そのティルも、部屋を出ようとするのをやめれば、部屋の隅で刀を抱えて座ったまま動かない。ひとまずは部屋を出るのを諦めて、セラはこれからの行動をあれこれと模索したが何も浮かばなかった。こんなときライゼスがいてくれれば――、思わずそんなことを考えてしまって、セラはそれを思考から追い出すように頭を振った。
 一人で来てしまったことを少しだけ後悔したが、剣を手にしたライゼスの姿を思い出して考え直す。あの姿をもう一度見るより苦痛なことなどない。
 自分で何とかしようとセラは再び考え始めたが、結局それも長くは続かなかった。どう考えても手詰まりだ。もう少し状況が動くのを待つよりなかった。そこに行き当たって、セラは再び立ち上がるとティルの傍に屈んだ。話相手にはなってくれそうもなかったが、ただじっと待つというのは得手ではない。彼に視線を当てると、短くなった銀髪に胸が痛んだ。
「……髪、綺麗だったのにな」
 その髪に触れようとして、だが思いとどまる。
「ごめん……ティル。多分私は、ティルのこと沢山傷つけたんだと思う。せめてちゃんと返事したいけど……解らないんだ。ティルのこと好きだけど、多分お前が言ってくれてる好きとは、違うんだと思う……」
 宙を迷う手を握り締める。もどかしかった。『好き』という感情を、もっとちゃんと理解していれば、もっとはっきりした答えが返せただろうに、それがどうしてもセラには解らない。解らない以上、返事はできなかった。
「でも……私はちゃんとティルが笑うのを見たいよ……」
 見つめる先で、不意にティルは立ち上がった。だがそれはこちらに応えてのことではないことは、近づいてくる足音で解る。セラもまた、小さく息を吐くと立ち上がった。扉が開いたのは、それからすぐだった。 だが現れたのはクラストではなく、セラは突然の来訪者に目を丸くした。相手もまた、同じような顔をしている。
「……本当に、ランドエバーのセリエラ王女なのか?」
 二十後半ほどの、黒髪黒目の青年で、実直そうな風貌をしていた。勢いに押されながら、咄嗟に取り繕えずにセラが頷くと、彼は慌てて膝を折った。
「不躾に済みませんでした。非礼をお詫びします」
「……貴方は?」
 恐る恐る問いかけると、彼は跪いたまま顔だけを上げる。
「シヴィリオ・ツィア・アークル=ルートガルドと申します」
「では……」
「クラスティオの兄です」
 セラが考えたことを、そのままシヴィリオが述べる。
「弟が無理に貴女を連れてきたと聞いて――」
「兄上」
 シヴィリオの声は、氷点下の声に割られた。その声がセラには誰のものか解らなかったのだが、現れた人物を見て、セラは酷く驚いた。
「クラスト!」
 一瞬別人なのかとも思ったが、シヴィリオが呼んだ名がそれを否定する。
「ボクのものに勝手に近づくな!」
 クラストにはいつもの笑顔どころか、余裕さえなかった。まるで幼子が我儘を言うようにクラストが叫び、諌めようとする兄の手を邪険に振り払う。
「セリエラは彼女の意思でボクの元に来たんだ。そうだよね、セリエラ――?」
 凍るように冷たい目がこちらを向く。そのあまりに冷たい目と殺気に、セラに抗う術はなかった。
「……その通りです」
 仕方なくセラはクラストに同調した。その言葉を聞いて、クラストが勝ち誇ったように笑い狂う。
「そういうわけだシヴィリオ。こんな下らない国などお前にくれてやる。せいぜいボクの足元に跪いてろ!」
 シヴィリオの体を無理矢理外に押し出すと、クラストはティルにも出るように指示をした。誰も入れるな、と吐き捨て扉を閉めると、二人だけになった部屋に荒く肩で息をつくクラストの息使いだけが響いた。
「……待たせてごめんね、セリエラ」
 やがてそれが収まると、いつもの表情といつもの声で、クラストが呟く。しかし彼の豹変ぶりはそれで誤魔化しきれるものではなく、迷ったがセラは率直に尋ねた。
「クラストは、シヴィリオ王子が嫌いなのか?」
「嫌いなわけじゃないよ。兄上の前だと調子が狂うだけだ」
「何故?」
 クラストはもうすっかりいつもの調子に戻っていたが、疑問はほどけずセラはなおも問いかけた。シヴィリオは誠実そうな人間だったし、クラストに邪険にされても怒るわけでも憎しみを表すわけでもなかった。ただ心配そうに見ていただけだ。
「知ってどうするんだい?」
「……自分の伴侶のことを知りたいと思っておかしいか?」
 問いでかけで答えてきたクラストに、思い切ってセラは踏み込んでみた。何もできない時を過ごしているうち、何かしないとという気持ちになっていた。反発するだけでは何も進まない。そんなこちらの考えなどお見通しなのかもしれないが、クラストは嬉しそうに笑った。
「やっと素直になったじゃない、セリエラ」
 頬に手をかけられ、それを跳ね除けたい衝動を必死で堪える。
「じゃあ、ボクの子を産んでくれるの?」
「か、考えとく。クラストが何を考えてるか教えてくれるならな」
 セラの声が盛大に引き攣った。そんな彼女をくすりと笑い、クラストは手を離した。
「……読めないからだよ」
「?」
「兄上の心は読めないからだ」
 クラストは相変わらず笑っていたが、それはいつもの笑顔とはほんの少し違う気がした。  
それ以上なかなか次の言葉を返してこない彼に、セラは待つか催促するかを悩んでいたが、選んだのは結局そのどちらでもなかった。質問を変える。他にも気になることはあった。
「クラスト。もう一つ聞きたい」
「なんだい?」
 いつもと少し表情が違う気がしたのは一瞬のことだった。薄く笑うクラストの笑顔はいつもと違う点などどこにもなく、気のせいかもしれないと思いながら、セラがもう一つの問いを口にする。
「今まで気にしてなかったんだが、お前の髪と目、この国では珍しいのではないか? その金髪碧眼は、まるで……」
「ボクの母上はランドエバー人だよ」
 クラストは金髪碧眼をしていた。ファラステル大陸では黒髪黒目が普通だ。南方には銀髪もいるが、この大陸で金髪は珍しい。さっき窓から外を見ているうちに、セラは改めてそれに気付いた。明らかにクラストはこの国から浮いている。
 そのセラの考えを見透かして肯定するように、クラストはあっさりとそう答えた。
「父上が、たまたまランドエバーからこの国に来ていた女を見かけて、その眩いブロンドに一目ぼれしてしまったわけ。それで産まれたのがボクだよ。でもそういうのって飽きるのも早いんだよね」
 他人事のように声を上げて笑いながら、クラストが肩を竦める。
「早々に捨てられて、母上はボクを残して勝手に死んだ。哀れボクには何も残らなかった――これだけならよくある話だ。だけどボクにはこの力があった」
 手を差し出し、胸の前でクラストがそれを握り締める。特にそこに何も現れるわけではなかったが、精神魔法のことを言っているのだとセラには解った。
「ボクは人の心が視える。少しならそれを操れる。それでボクはこの城にしがみついた。色んな人に取り入って、父上を少しずつ操って。それでも少し苦労したけど、どうにか第二王子の身分は得られた」
 手を降ろすと、クラストはまっすぐにセラへと向き直った。水色の澄んだ瞳に見つめられ、セラもそれを見つめ返した。
 人の心が視えるなど、気持ちの良いことではないだろう。幼い頃からそんな力を持ったクラストを、セラは哀れだと思った。だが、その途端クラストが弾かれたように笑いだした。
「同情しているの、セリエラ? だったら無意味だよ。ボクは自分の力と存在を疎いと思ったことなどない」
 ひとしきり笑い、楽しそうにクラストが笑い混じりの笑みを零す。
「むしろ生まれたことを喜び、人生に希望を見たよ。この力さえあれば何でもできる。平凡に産まれて平凡な幸せしか持っていない者よりずっとずっと恵まれているじゃないか。……それにね。ボクは自分の容姿も気に入っているよ。他の者よりずっと目立つし美しい」
 心底幸せそうに歌いあげながら、クラストは歩き始めた。楽しそうに笑いながら距離を詰めてくるクラストに、咄嗟にセラが後ずさる。
「リュナーベル。あの子はボクより強い力を持ちながらその力を厭って使わない。ティルフィア。ボクより美しい容姿を持ち王の寵愛を受けながら、絶望しか見出せない。不幸で哀れなのは彼らの方だ。そう思わないか、セリエラ?」
 妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりとクラストは歩み寄ってくる。愉しそうに彼の双眸が細まって、セラの足が震えた。後ずさる足が何かに当たり、バランスを崩して座り込む。柔らかい感触に腰が沈み、ついた手はシーツを掴んで、そこがベッドだと知る。見上げたクラストの唇が、綺麗に弧を描いた。
 怖い、と――セラは初めて恐怖を感じていた。どんなに強い相手に剣を向けられても感じたことのない感情に支配され、セラは震えた。
「人は誰も弱く儚い。ずるく汚い。ボクだけが違う。だから、こんな下らない世界を変えるために――ボクにはキミの権力が必要なんだ」
 震えてこちらを見上げる少女の傍らに片膝をつき、震える手に手を重ね、クラストはセラの涼やかな翠の瞳を覗きこんだ。
「セリエラ。ボクがやらなければ、愚かな人間はまた過ちを繰り返すよ。平和に飽きてまた争いを始めるかもしれない。平和に溺れて自分で命を断つかもしれない。そんな無駄な血は流さなくていいだろう?」
 歌のような囁きがセラの耳をくすぐる度、少しずつ力が抜けて、意識が遠くなっていく。その遠くなる意識の向こうで、優しいクラストの声だけが残って響いた。

「ねえ、セリエラ。キミが見てきた世界は、本当に美しかったかい?」