セラの決意 3



 閉じていた目を見開いて、クラストは微笑んだ。くたびれた宿を見上げて目を細める。この宿の二階の角部屋に、セラがいる。その愚かなほど強く儚く愛しい存在を思えば、自然口元がほころぶというものだ。
「人は誰も愚かだ。物理的に、精神的に、とかく傷つけ合わずにはいられない。この世界は、ボクらが生きるには少し息苦しいよね」
 そうやって見上げたまま、クラストは囁いた。その囁きに、隠れていても無駄と知り、物影からツインテールの小柄な少女が姿を現す。
「……苦しいです。哀しいこともたくさんあるし、悲鳴をあげたいくらい辛いときもある。でも、同情する振りはやめて。あなたは嘘をついている」
 返ってきた言葉に、微笑んだままクラストは視線を移した。夜空色の隻眼が、キッとこちらを睨んでくる。
「あなたは息苦しさなんて感じていません。あたしに精神支配を試みるなんて、ずいぶん舐められたものですね」
 す、とリュナの右手が上がり、眼帯にかかる。脅しのような台詞と仕草に、「はは」とクラストは声に出して笑った。
「おかしいね。ボクとキミは同じ力を持ちながらこんなにも違う。――そうだね、キミを堕とすのは無理そうだ。どうやら力の桁が違うらしい」
 そう認め、そしてまたしばらくクラストは笑い続けた。だがその声が途切れたとき、表情からもまた笑みは消えた。
「まるで理解できないよ、リュナーベル。それだけの力を持ちながらその力を自ら封じ、愚かな人間と一線を画さないキミがね」
 囁きから甘さは消え、表情は無かった。仮面を外したのだと悟って、少しリュナの手が震えた。戦いになれば勝ち目などない。ライゼスを窘めておきながら、自分の方がずっと軽率だったとリュナは自責した。だがそれでもリュナは退かなかった。というより、こうなっては立ち向かっても逃げても大差ない。
「愚かなのはあなたです、クラストさん。こんな下らない力があったからなんなんですか? それで人より優れていると思う方がずっと愚かだわ」
「本気でそんなことを思っているのか、キミは」
 消えた表情が、嘲笑という形で戻ってくる。
「わかっているはずだ。通じもしないハッタリをやめてその眼帯を取ればいい。キミの視えすぎるその右目で、ボクの心を読めばいい。剣でボクに勝てなくても、心理戦ならキミにも分がある」
 一歩クラストが距離を詰めてくる。まだ大きく距離があるのに、押されたような感覚を覚える。エズワース邸で初めて彼に会った夜のように。
「そうすればボクに勝てるかもしれない。取り逃しても、ボクの目的を知りたがっているセリエラやライゼスはキミの力に感謝するだろう。ティルフィアの安否もわかるね。さあ、どうする、リュナーベル・リージア・カシスォーク?」
 クラストは動かなかったのに、リュナは一歩後退した。
「強い力を持っているから脆くないなんてことはない。精神魔法などきっかけにすぎない。人の心を掻き乱す術など誰も持っている。舐めているのはキミの方だ。人の残酷さをね」
 いつもの笑みを戻すと、さも興味を失ったとばかりにクラストは踵を返した。
 リュナは後退しかけた足を止め、眼帯を強く掴み、握りしめた。だがそこから先に行けない。クラストの言葉はただの挑発だとわかっている。動けない自分はそれで正しい筈なのだと、解っているのに泣きたくなった。

 ■ □ ■ □ ■

「……全部思い出しました。あの日僕は、貴方を連れ戻すように言われて、城を出たんです」
 クラストと共に、彼の剣もまたその場から消えていた。空の手の平を握り締めて、ライゼスが呟く。こちらの腕を封じるように後ろから手を回しているセラの、その手に触れて彼は言葉を続けた。
「でも城下町のどこにも貴方はいなかった。僕はずっと貴方を探し続けました。……そういえばセラの魔力を感知できるのに気付いたのは、あの一件がからですね。あのときはそうとは知らなかったけれど、無意識に僕は貴方を追った。そしてあの野盗のアジトに辿り着いた。僕が行かなければ自分で抜け出せたはずの貴方は、僕を庇って、剣を捨てた」
「違う。どのみち私一人では――」
 セラが呻いたが、ライゼスはゆっくりと頭を振った。重ねている手をぎゅっと握り締める。
「どっちだって僕には同じことだ。セラだけは僕が守りたかった。守らなくちゃならなかった。それができなかったことに変わりはないんです。なのに記憶に鍵をかけて、今まで触れなかった。……自分が怖かった」
 そっとセラの手を外し、ライゼスはセラを振り返った。セラは泣いてこそいなかったが体を震わせ、その姿はまたひとまわり小さくなったように見えた。
「同じだよ、私も。理由を見失ったまま力だけを求めた。あの日私は、二度とラスを傷つけないように誓った筈なのに……結局私は私の我儘で、お前を振り回し続けてた」
 自分の滑稽さを嘲笑いながら、震える自分の体を抱く。力を求め、強くなりたいと願い、強くなったつもりでいた。そんな過去の自分が滑稽で仕方なかった。だけど。
「……だけど、一人で歩けると思っていたんだ。一人で歩ける強さが欲しかった。お前をいつか、私から解放するために」
「……セラ……」
 セラが微笑む。いつも通りの笑顔なのに、胸が痛む。
 彼女が一人立ちしたがっていたのは、自分の小言から解放されたかったからではなかった。セラのことは、何でも知っているつもりでいたのに、本当の彼女の気持ちなど何も知らなかったのだとライゼスは今さらのように痛感していた。
「だから……ラス。やっぱり一人で行くよ。私はもう、ちゃんと歩ける。……リュナに謝っておいてくれ」
 ライゼスの胸に頭を寄せて、セラは呟いた。
 そのよく知ったぬくもりは、別人のような余韻を残して消える。
 気配が遠くなっても、ライゼスは動けないままその場に座り込んでいた。セラが出て行って、どれくらいの時間が経ったのだろうか――冷静に考えれば数分と経っていないと解るのだが、それでも一生分の時間が過ぎたように感じていた。彼女が望む限り傍にいようと、そして彼女と彼女の行く道を守ろうと。そのひとつの決意のもとに、今までを歩いてきた。
 だが、セラがそれを望まないとすれば、自分は彼女から離れるべきだろう――それが答えの筈だ。なのにライゼスは空虚な思いを拭えなかった。セラはもう自分のお守りが必要な子供ではない。自分で判断して道を選び取り、そしてその道を行く強さも併せ持つ一人前の大人だと、解っているのに頭のどこかでそれを認めたくない自分がいる。それは従者としてあるまじきことだ。結局答えを見つけられないまま、立ち上がることもできない。
「――ライゼスさん?」
 そのまま時間だけを流していると、不意に部屋の中に灯りが零れた。開いた扉から漏れた灯りだと気付いて、そちらを向く。扉を開けたのはリュナだった。隻眼をいっぱいに見開いて、信じられない、と言う風にかぶりを振ってからリュナは声をかけてきた。
「ライゼスさん……お姉様は?」
 リュナの瞳に責めるような色が浮かんでドキリとする。聞いておきながら、彼女は答えを知っているようだった。それを裏付けるように、リュナが言葉を継ぐ。
「どうして……? どうして一人で行かせたんですか?」
 ふらりとおぼつかない足取りで近寄ってきたリュナが、座り込んだままのライゼスの隣にへたりと崩れ落ちる。
「……セラがそれを望んだから。そして僕が傍にいることを望まないからです。だから……僕はもう、自分の取るべき道がわからない」
 独白のようなライゼスの言葉を聞いて、リュナは顔を上げた。ライゼスが俯いたままなので視線は合わないが、彼らしくない酷く虚ろな表情をしていてリュナは眉を顰めた。
「ライゼスさん」
 リュナはライゼスの服を掴むと、眠りから覚ますように強く揺さぶった。眠っていないのは解っているが、そうしてもこちらを見もしない彼はその状態も同然だろう。
「ライゼスさん、しっかりして下さい。気持ちは解りますが考えるのは後です」
 焦った声でリュナが叫ぶ。さらに揺らす手に力を込めて、リュナは早口で続けた。
「聞いて下さい。ご存じだと思いますが、さっきクラストさんがお姉様に接触しました。お姉様がライゼスさんに何かを言ったなら、それは恐らくクラストさんの意図するところなんじゃないでしょうか」
 そこでようやく、ライゼスがぴくりと反応を示す。
「お姉様を誘い出すにはライゼスさんが居たほうが操りやすい。だからひとまず、ティルちゃんを人質にして、ライゼスさんを同行させる。でも、ライゼスさんが精神魔法で落とせないから、お姉様の方に揺さぶりをかけた。お姉様とライゼスさんは、お互いを支え合っているからこそ、精神魔法が通用しない強さがあった。だったら、お互いに崩させればいい……多分、全部クラストさんの計算通りなんです」
 言い終わる頃には、ライゼスはもう顔を上げていた。だが今度は、リュナが視線を落とす。
「ごめんなさい。あたしがもっと早くに気付いていれば……」
「いえ。僕が馬鹿でした。セラを一人で行かせて良い訳が無かった」
 立ち上がり、ライゼスは唇を噛んだ。
「考えるのも悩むのも城に帰ってからでいい。僕は一体何をしているんだ……!」
 今さらながら、あのときセラを引き止めなかったことをライゼスは深く後悔した。状況を考えれば、例えどんなに拒まれても一人で行かせるべきではなかった。激しく自分を責める一方、思考はどこまでも冷静になっていく。もう、立ち止まっている暇などない。
「ライゼスさん……」
「セラを追います。ここまで順調に事を運べば、クラストにも油断はできるはず。どうにかそこを突ければ、彼のしようとしてることも阻止できるかもしれません」
「クラストさんの目的が解ったんですか?」
 リュナもまた立ちあがるとライゼスを見上げた。ようやく視線が合う。
「いいえ、直接は聞いていません。でも策略があってセラを妃にしたいとすれば、普通に考えればランドエバーの軍事力が目当てです。彼がそれを得て何をしようとしているかは解りませんけど、ロクなことには思えませんね。とにかく、彼にセラを渡すわけにはいきません」
 交わる視線の先で、紫色の瞳が強い輝きを放っている。
(ああ、お姉様にそっくりだ)
 思わずそんなことを考えながら、リュナは深く頷いた。