禁忌の姫 5



 数か月ぶりに、セラはリルドシア城にかかる跳ね橋に足をかけると白亜の城を見上げた。お伽噺のお城のような、花と緑で溢れた城。以前は素直に綺麗だと思えたその城も、今は少し寂しげに見えた。
「セラ、早くー!」
 とっくに橋を渡り終えてしまったエラルドが、その向こうで手を振る。「ああ」と応えてセラは歩調を早めた。その後に続く者は誰もいない。
 ライゼスと相談した末に、セラは一人でリルドシア城へ行くことにした。最たる理由はリュナにうまい説明が思い浮かばなかったからである。リュナを信用していないわけではないが、リルドシアとの関わりはおいそれと話せる事情ではない。かと言って、ちゃんとした説明もなしにリュナを一人待たせるのも不自然であるから、セラは一人で行くと言い張った。勿論ライゼスは良い顔をしなかったが、結局押し切って今に至る。
「こっちだよー」
 橋を渡り終えると、エラルドに手を引かれた。相変わらず人懐こい笑みを浮かべているエラルドを見ると、何度か捨て去った考えが頭をもたげてくる。――彼なら力になってくれるのではないかと。エラルドならティルを助けることに異を唱えはしないだろう。レイオスを説得してくれるかもしれない。一国家の力を持ってすれば、クラストの裏もかけるかもしれないと。だが、それがもし失敗に終われば――、そう考えると、紡ぎかけた言葉は止まって開きかけた唇は閉じてしまう。ミスは許されない。今この瞬間でさえ、クラストに監視されているかもしれない。もしそうだとすれば。

 ――キミの大事なものからひとつずつ……ボクが奪ってあげるから。

 そう言って笑ったクラストの、おぞましいくらい妖艶な笑顔と声が脳裏にフラッシュバックする。緩やかにセラは首を横に振って、それからは何も考えずに黙ってエラルドに着いて行った。そして辿り着いた場所も、初めてここを訪れたときと同じ貴賓室だった。
「レイス兄に話してくるから、悪いけど暫くここで待っててくれない? 話通したら迎えに来るからさ」
 頷くと、すぐにエラルドは退室していった。
 ソファに腰を降ろすと、軽い既視感を覚える。そういえば初めてティルに会ったのはこの場所だった。そのときは、彼は一言も言葉を発することはなかったが。白いドレスに身を包んだ、長い銀髪と宝石のような瞳の、完璧なまでに姫を演じ切っていた姿が思い返せば痛々しい。あのとき彼がいた場所にその姿が見えるようで、思わずセラは手を伸ばした。
「……私はただ……」
 無意識に呟く。
 悲痛な告白に返事をできないままの罪悪感が、胸の奥にわだかまってつっかえていた。
「もう傷ついて欲しくなかったんだ。ちゃんと笑って欲しかった」
 勿論ここに彼はいない。どちらにしろ零れた言葉は返事ではなく、ただの言い訳にしかならなかった。全てが無意味だ。だがそんな無為なことを、繰り返さないうちには扉が鳴った。
「エド?」
 早いなと思いながら振り返るが、そこから現れたのは思っていた人物ではなかった。いや、エラルドもいるにはいるのだが。
「レイオス王子」
 慌ててセラは帯剣を解きその場に跪いた。突然のことで焦るセラに構わず、レイオスはきさくに笑いながら向かい合ったソファに身を沈めた。
「堅苦しいことは不要だ。私はまだ王位を継いでいないし、対等だろう。セリエラ王女」
 彼がつけた敬称に、セラは驚いて顔をあげた。先の一件で、セラは自分の素性をレイオスに語ってはいなかったからだ。察してレイオスは補足した。
「あれから何度か貴女の父上と書状を交わした。事情は全て聞いているよ。こちらとしても、つまらない内乱にランドエバーを巻き込んでしまったのでね。これで貸し借り無しとして頂ければ我が国の幸いだ」
 セラが何と言っていいかわからずにいると、その空気をエラルドの素っ頓狂な声が割いた。
「え、ええ!? セラって女の子だったの?」
「……失礼だろう、エラルド。口を慎み給え」
 セラを指さして口をぱくぱくするエラルドを、レイオスが一喝する。
「構いませんレイオス王子。先に性別を偽ったのは私です」
「それについても元はと言えばティルフィアが我儘を言ったせいだ。父の目は誤魔化せても私の目は誤魔化せんよ。そんな訳で、知っていて止めなかった私にも責任はある」
 レイオスは組んでいた足をほどくと、少し気まずそうな顔をした。近寄りがたい威厳を纏ってはいるが、そんなふとした仕草に酷く親しみが持てる。それが人徳があるという彼の魅力なのかもしれないとセラは思った。
「そう言うわけだから、何も畏まる必要はないのだ、王女。とにかく座って楽にしてくれ」
 その言葉に押されてセラが着席すると、レイオスは再び足を組んだ。
「人払いをしている故、何のもてなしもできんが悪く思わないで欲しい。……ティルフィアは元気か? そういった話題になるものでな」
「……はい」
 少し迷ったが、セラは頷いた。嘘や演技はセラの苦手とするところではあるが、元気で助け出す、そうすれば嘘にならない、そう思うと探るような漆黒の瞳をまっすぐに見つめ返すこともできた。
「そうか。ときに、貴女に頼みがあるのだ」
「なんでしょうか」
 どぎまぎしながらセラが返事をする。今のところはうまくやり過ごせていても、隠し事をしながらの会話は緊張するものだ。何食わぬ顔というのも難しい。しかし彼の頼み事は、そんな苦労など忘れるようなものだった。
「私は先日、ランドエバー王にティルフィアを我が国に返して欲しいという旨の書状を送った。だが彼はそれを望まないからと断られたのだ。その上ランドエバーも出たいなどと言っているらしい。王はティルフィアの要望に沿う気でいるようだが、セリエラ王女。どうか貴女からティルフィアに、国に帰るようとりなして貰えまいか」
 答えに迷い――というより答えを持ち合わせず、セラは黙りこんだ。父にそんな書状が届いていたことなど知らなかったが、ランドエバーを出て行くと言ったティルの寂しげな瞳だけがただ思い出された。――だが。
「このままランドエバーにいれば、いずれそちらの国に迷惑をかけるだろう。増して外に出るなど論外だ。そのくらい、ティルフィアにも解っている筈なのだがな。……多少不謹慎な話になるが、父上はもう長くない。父上さえいなければ、いくらでも誤魔化しはきくだろう。そうでなくても、やはりこの国の不始末はこの国で始末するのが筋だと」
 ふとレイオスは言葉を止めた。そして視線を上げたのは、セラが立ち上がったからだった。
「貴方もティルを厄介者扱いするのですね。実の兄だというのに」
「身内であろうがなかろうが、厄介なのは事実だろう」
 何を今さらとでも言いたげな口調に、セラは目を釣り上げた。そしてきっぱりと告げる。
「ティルは帰しません」
「何故だね」
「私はティルを厄介者などと思ったことはありません。我が父も恐らく同じでしょう。ティルがこれからどうするかは、彼自身が決めることです」
「それは無理だ、王女よ」
 浅く息をつくと、レイオスはまた足をほどいて身を乗り出し、テーブルの上で手を組んだ。
「……貴女はティルフィアを好いてでもいるのかね?」
 突如そんなことを聞かれる。少年の悪戯じみた色と大人の呆れが混在した揶揄するような声が、余計苛立ちに拍車をかけた。
「――ティルは大事な友人です。でもそれも関係ありません。ただ私が納得できない」
「何も背負っていない者の発言だな」
「何かを負っても、誰かを愛することはできる。だが貴方たちはそれすらを放棄したんだ。そして十数年もティルの痛みから目を背け続けた」
 ぎゅうと爪が食い込むくらい、セラは拳を握り締めた。例えその爪が皮膚を破っても、ティルの受けた痛みには及ばないだろうと思った。憤るセラと、それを受けても表情を崩さないレイオスの二人を、エラルドがオロオロと見守る。それにも気付かないセラを、レイオスはふっとせせら笑った。
「貴女は理想論者だな」
「なんとでも。理想を忘れて人の痛みに麻痺するくらいならば、偽善者にでも甘んじよう」
 剣を掴むと、セラはそのまま踵を返した。エラルドがそれを止めかけ、レイオスが首を横に振ってさらにそれを止める。
「失礼する」
 扉が閉まり、足音が遠ざかる。まだオロオロしているエラルドを見て、レイオスはようやく、「くくっ」と声に出して笑った。
「セデルスとの一件を聞いたときも思ったが、王妃におさまるには惜しい器だ」
「のんきに言ってる場合じゃないでしょ。セラ、怒っちゃったじゃん」
 気疲れし、ぐったりするエラルドには一瞥もくれず、レイオスは視線を真逆に走らせた。
「成程お前が執着するわけだな。……良いだろう、動こう」
 声にはならぬ言葉を唇に乗せて、冷笑する。
 暮れに近い闇が、そろそろと部屋に侵蝕を始めていた。