剣と番犬 5



どんなに活気がある街でも、ひとつ通りを外れれば途端に人の波は引いて行く。喧噪を離れ、完全に人の気配が無くなり――そしてまた現れる。ただし新しく表れたそれは、繁華街を行く街人のものではない。それを確認すると、彼は立ち止まり、被っていたフードを取り払った。ハニーブロンドが零れ落ち、ふう、と不愉快そうに彼は息を吐いた。
「暗闇ってボクに似合わないよね。ボクが目立つから仕方ないとはいえ……」
 こそこそするのも隠れるのも、臆病者か日蔭者のすることだ。その真逆たる位置にいる自分には、まるで相応しくない。そう言葉に込めながらも完全に気配を闇に溶かし、彼は闇の向こうに蠢く気配に続けた。
「ま、こんなこと、じきにになくなるんだけどね。伯爵が死んだのは予定外だったけれど、それ以上に強力な駒が幾つも手に入ったから。待った甲斐があった――動くよ」
 高揚感に浸りながら、なお歌う。うっとりと目を細めて――だが最後の一言だけは鋭く。それきり気配は全て消え、彼は黙った。ほんの少し時間を流してから、息を吐く。
「駒は、利用し易いものに限るね。でも、扱いにくくても価値があるならボクは利用して見せるよ。番犬くん」
 瞬間月が雲を割って、足元を照らした。その向こうに、鋭い紫の双眸がある。
「――いや、狂犬くんかな?」
 闖入者が剣を手にしていることに気付いて、彼は言い換えた。笑みこそ消さなかったが、さすがに少し緊張して身構える。そんな余裕のない自分は嫌だったが、前述の通り価値があるならそれにも耐えるしかなかった。
「何を企んでいる? クラスト」
 問われてクラストは剣の柄に手をかけた。今にも切り込んできそうなライゼスを牽制しながら、クラストもいつでも斬りかかれるようほんの少し重心を下げた。
「……それこそ予定外だね。今キミを殺せば、セリエラは言うことを聞いてくれなくなる。……危ない橋は渡りたくないのに、全く腹立たしいよキミは」
「貴様の思い通りにはさせない」
 ライゼスが剣を構え直す。そこにある圧倒的な殺気と膨大な圧力に、クラストは一瞬だけ笑みを消し――そして、いつもの笑みを浮かべた。身構えるのをやめ、剣からも手を離す。
「やめとくよ。危ない橋を渡るのはボクの主義じゃない」
 にこ、と笑う。その隙だらけの体に、迷わずライゼスは地を蹴った。一度構えを解いたクラストに、この一撃を避ける術は無い筈だった。それこそ、彼がどのような力を持っていようとだ。だが。
「……ッ!」
 硬い手応えに息を呑む。予想しないことに思考が追い付くのが僅か遅れるが、それでも反射的にライゼスは後退した。間髪入れず、その場所を白銀の軌跡を残して刃が薙ぐ。
 それだけに留まらない。うすら笑うクラストをバックに、攻撃は続く。そこでようやく、クラスト以外の気配があることに気が付いた。再び雲は月を覆って光を失くす。なのにその『誰か』はそれまでと全く変わらぬ動きで正確にこちらを攻撃してくる。気配と勘だけでそれを受けるが、長くはもたないだろう。その上、剣を手にしたことで蝕まれる自我が、限界に辿り着きそうになっている。最後の賭けで、ライゼスは相手の剣を受け止めて動きを押さえた。それを打ち払って攻勢に転じるが、難なく避けられ形勢逆転にまでは至らない。相手の速さも動きも、闇夜にあって尋常ではない。せめて、もう少し視界が開けて欲しい。
『光よ、我が前に集いてその姿を示せ!』
 光源のない場所で、印も切ることもできず具現が成せるかはそれもまた賭けだったが、仄かに周囲が光った。相手の位置と相手の武器がはっきりと照らし出され――そしてライゼスは息を飲んだ。――その隙を相手は逃さない。相手が手にした『刀』が、肉を食もうと襲い掛かる。身を捩ってかわすが、脳に痛みが伝わる。かすったようだ。だがそれに構っている場合でもない。蝕まれた自我が驚愕と共に返ってくる。
「貴方は――」
 獣のようにしなやかに相手は身を翻し、そしてまた刀を振るう。それを受ければ再び膠着が生まれる。対の蒼玉。銀髪は短くなってもなお、目も眩む輝きを放つ。今そちらを見る余裕はないが、うすら笑うクラストの表情が脳裏をかすめて、ライゼスは舌打ちした。
「利用されるなど、貴方らしくもない……!」
「そうかな?」
 答えたのはクラストだった。後方から、笑みを含んだ甘ったるい声が響いてくる。
「彼は生まれながらにずっと他人に利用され、他人の為に生きてきたよ。利用されれば必要とされる。仮初めにも居場所ができる。彼にとってはそれが幸せだ」
 ぎり、とライゼスは唇を噛みしめた。息が上がり、視界が霞んでくる。遠ざかろうとする意識を繋ぎとめるのに必死になれば、やられてしまう。だが思考を放棄して暴走すれば誰が止めるのだろう。最悪目の前の人物を殺してしまうかもしれない。セラの安全を考えればその方がいいのかもしれないが、それはできなかった。
 そうすればきっと、セラは泣く。
「……ふざけるなと、言いますよ。セラがここにいたなら」
 ライゼスは唸った。今ここで間合いを取れば、次の一撃が最後になるだろう。
「セラは打算無しに貴方を必要としていた。なのにそれを棄てても貴方は、セラを利用しようとする者につくんですか!?」
「無駄だよライゼス。彼にもう自我はない。死んでないだけだよ。生きてはいない」
 叫ぶライゼスを嘲笑うかのように、クラストの声が降る。
「彼は最後の誇りで愛する者を傷つけない道を選び、生きることを放棄した。……だけどボクは利用できるものはする主義なんだ。彼の戦闘力は欲しかったし、まだ餌としての価値もあるしね。ホラ、現にこうやって役に立ってくれてる」
 澄んだ音を上げて剣が弾かれる。こちらの間合いぎりぎりで、再び彼は――ティルは刀を構えた。何の表情も浮かばない美貌は、それ故に人形のようだった。冗談のように白く透き通る肌と生気のない瞳。そして暗闇でも眩い銀。そこに生きている証などない。
「退きなよ番犬。限界だろう。キミが死んでもティルフィアが死んでもきっとセラは泣くし、ボクもまだキミ達が必要だ」
「……ッ」
 クラストの言葉を無視し――そもそも聞こえてはいなかった。ライゼスは剣を降ろさず、駆けた。クラストにとってその行動は意外で、ティルにしてもその速さには対応しきれなかった。かろうじて受けたものの、体勢は限りなくティルに不利になる。しかしライゼスにはそのまま彼を殺すこともできなければ時間もない。その事実がクラストの笑みを保たせた。
 そしてこれが最後だとはライゼス自身も理解していたことである。だから、叫ぶ。

「宣戦布告したのはそっちだろう。お前の意思でちゃんと僕と勝負しろ、ティル!!!」

 それを最後に、ライゼスは剣を手放した。これ以上やれば暴走する。手を放れた剣が地面を滑り、体中から力が抜ける。クラストが必要だと言った以上、その駒であるティルは殺してはこないだろうと踏んだのだが、それでも一撃ぐらいはあるかもしれないと覚悟する。しかし彼は動かなかった。その真意を確かめる余裕もなく意識は遠ざかる。
「――茶番は嫌いだよ」
 遠くで、忌々しそうなクラストの声が聞こえ、それを最後に意識は途切れた。
 
 燃えるように赤い空。
 頭にこびりついているのは血のように毒々しい赤だったが、実際は普通の黄昏だった筈だ。
 その日ライゼスは、城を抜け出して城下町に遊びにいってしまったセラを連れ戻す為に追いかけていた。それは別段珍しいことでもなかった。だがその日は違った。どんなに捜しても、彼女の姿はなかった。あのときの嫌な胸騒ぎは忘れられない。だからちょっとしたことで心配して小言を言うようになったのだろうと思う。

「……ん。ライゼスさん」
 揺り動かされ、ライゼスはうっすらと目を開けた。最初に薄暗い空が見えて、それから徐々に地面の冷たさを感じていった。最後に、ゆり起す手の小さな温かさ。
「しっかりしてください。ライゼスさん」
 リュナが心配そうにこちらを見下ろしている。ゆっくりと体を起こすと節々が痛んだ。少なめに見ても数時間は気を失っていたようだ。
「リュナ。セラは……」
 紡ぎかけた言葉は、ぱしんという音と軽い衝撃に遮られた。痛みよりも驚きでライゼスが言葉をなくしていると、今しがたこちらをはたいた手を握り締め、リュナが叫ぶ。
「お姉様のことを心配するなら、こんなことしないで下さい! ティルちゃんがいなくなって、お姉様はただでさえ憔悴してます。ライゼスさんが側にいなくてどうするんですかっ!」
 リュナの大きな瞳にはいっぱいに涙が溜まっている。ぽかんとしていたライゼスだったが、それに気付いてしまえば素直に詫びるしかなかった。
「……すみません、リュナ。確かに今回のことは少し軽率でした」
 リュナは少しの間涙が溜まった目でじっとこちらを見ていたが、やがて目を伏せるとふるふると頭を振った。目を閉じることによって溢れた涙がはらはらと舞って消える。
「ごめんなさい。言いすぎました」
「いえ。セラのことを心配してくれて、ありがとうございます」
 微笑みながらライゼスは立ちあがった。リュナもまた座り込んでいたので、そちらに向けて手を差し伸べてやる。
「それで、セラは……、リュナはどうしてここに?」
「ライゼスさんが居なかったから探してたんですよ。お姉様の目が覚めて、ライゼスさんがいなかったら心細いと思うから……。だからちょっとだけ、眠りが深くなるよう魔法をかけてきました。あ、危ない魔法じゃないですから!」
 まだ座り込んだままリュナが状況を説明し、そして少し罰が悪そうな顔をする。以前、セラに魔法のとばっちりを食らわせてしまったことをまだ気にしているのだろう。察してライゼスは微笑を保ったまま礼を述べた。
「ありがとうございます。その方が助かります。セラにこのことは言わないで下さい」
 隠しごとをすればセラは怒るだろうが、今回の一部始終をセラに話すには、今のセラにとっては負担が過ぎるだろう。リュナにもそれは解る。頷いて、リュナは立ちあがろうとライゼスの手を取った。しかしその瞬間、彼女は弾かれたように顔を上げた。
「――ティルちゃんに、会ったんですか?」
 唐突なリュナの言葉に、ライゼスは頷きかけて、だが動きを止めた。今、それを知る術などリュナになかった筈だ。今までの会話を思い返してみても、その事実は勿論それを匂わすようなことも言っていない。怪訝に思ってリュナを見ると、彼女ははっとしたように左目を見開き、そして慌てて掴んでいたこちらの手を振りほどいた。その自分の腕を抱きよせ、気まずそうにリュナが視線を落とす。
「もしかして、リュナ……貴方、」
「ご、ごめんなさい!」
 ライゼスが言葉を言い終える前に、勢いよくリュナは頭を下げた。
「わざとじゃないんです! それに、いつも視えるわけじゃありません! ただお姉様やティルちゃんが心配だったから……そのこと考えていたから、同調して視えちゃったんです。ごめんなさい!」
 リュナが必死に弁解する。だがライゼスにはあまり聞こえていなかった。彼がそのとき考えていたのはおよそ別のことだった。
「でも、その力を使えばクラストの目的を探ることが……」
 そこではっとライゼスは言葉を噤んだ。ゆらりと顔を上げたリュナの、その表情があまりに辛そうだったからだ。そして、即座に自分を恥じる。
「……すみません、リュナ」
 人の心が視えることを、ただ便利だと思えるほどライゼスも気楽な性格はしていない。なのにどうしてそれを考えられなかったのだろうと悔いる。ただ、考えられぬほどに今追い詰められているというのも確かだった。それを伝えるためと話を変えるため、強引に話を戻す。
「――会いました。軽率だと思われても仕方ないですが、やっぱりこのまま黙ってセラをクラストに従わせるのはあまりに危険です。だから、どうしても目的を探りたかった。彼はセラを操るために僕を同行させているようですし、本気で僕を殺しはしないと踏んでいました。実際彼は僕を殺そうとはしなかったし、そのお蔭で収穫も多かった。リュナには心配をかけてしまいましたが、僕はセラを傷つけるようなことはしません。信じて下さい」
 リュナの表情が歪んだのは一瞬で、もういつもの顔に戻ると、こくりとリュナは頷いた。
「……わかりました。ライゼスさんは勝算があって行ったんですね」
「とはいえあの人が出てきたのは予定外でしたけどね。リュナが探しに来てくれなかったら少し危なかったので大きなことは言えません」
 苦笑する。夜が明け始め、うっすらと周囲が明るくなってきた。その光源を元に、ライゼスは簡単なスペルで随所にできた傷を治した。怪我のうちに入らないようなものばかりだが、残しておけばセラが不審に思うだろう。
「ライゼスさん。ティルちゃんと会ったのに一緒じゃないってことは、あまり良い状況じゃないのはわかりますけど……でもティルちゃんが元気だってことだけでも、どうにかお姉様に伝えられないでしょうか」
「僕もできればそうしたいですが、そうすればなし崩し的に全部話さなきゃならなくなります。それに……元気かどうかは怪しいですしね」
 後半はほとんど口の中だけで言ったことなので、聞き取れなかったリュナが首を傾げる。だがそれを再び口に出すことはなく、ライゼスは剣を拾い上げた。抜き身のまま転がっていたそれを鞘におさめる。
「……それお姉様の? ライゼスさんって剣が使えたんですか?」
 怪訝な声を向けてくるリュナに答えないまま、ライゼスは曖昧に笑った。
 剣に触れたことで少しだけ心が波立ったが、戦ってさえいなければ自我を保つことはさほど難しくなくなっていた。