さよなら 5



 歌が聞こえる。
 哀しみを閉ざすように。不安な心をそっと包んで、撫でるように。温かく、優しく、哀しく。さよならと奏でたのと同じ声で、歌は遠く、遠くで響く。それを最後に、声は消えた。
「セラ?」
 夜明け前から小雨が降り始め、陽の光は雲に閉じ込められている。そんな薄暗い朝の中庭で、ライゼスはようやくセラの姿を見つけた。
「リュナが、セラが戻ってこないと心配していましたよ……、セラ?」
 声に気付いて、セラがこちらを振り返る。酷く緩慢なその動作に、様子がおかしいことに気付いてもう一度ライゼスは名を呼んだ。中庭に降りて、動かないままの彼女に近づく。いつから外にいたのかはわからないが髪中に小さな雨の粒が煌めいていた。
「ラス……」
 セラの声が、か細く呼ぶ。手を伸ばせば触れられるくらい傍に寄ると、縋るように伸びた手が服を掴んだ。いつもの毅然として凛々しい面影はそこになく、戸惑いながらその手を取ると酷く冷えていて、ライゼスは眉を顰めた。
「中に入りましょう、セラ。風邪を引きます」
 いつものように過保護だと言って苦笑してくれれば少しは安心できたのに、セラは小さく頭を振る仕草だけでこちらの言葉を拒んだ。何と言っていいのかわからず言葉を探しながらセラを見つめる。セラの双眸もこちらを向いていたが、焦点は合っていなかった。その虚ろなままの目で、セラが呟く。
「ティルがいない……」
「……え?」
 その呟きに、ライゼスは怪訝な声を上げた。ティルの怪我は命に関わるほどではなかったし、治癒もした。しかし一晩で動き回れるほど軽傷でもなかった筈だ。何故そうまでして、という疑念がライゼスの中で沸き上がる。確かに昨夜ティルは取引の材料にされそうになった。だがそれで身を引くなどあまりに彼らしくない。それに何より、自らセラの元を離れたというのが信じられなかった。だがその疑問は、彼女が続けた言葉によってあっさり消えた。
「きっと……、私がずっと、ティルを傷つけてたんだ……」
 セラの言葉は抽象的で、およそ何があったかを察するには足りない。それでもライゼスには想像がついた。セラが何を知ったのか、何故彼が出て行ったのか。独白のように呟いて、セラは静かに泣いていた。複雑な色をその瞳に乗せながらも、ライゼスは優しくセラの両肩に手を置いた。幼い頃から傍にいて、彼女がこんなに小さく見えたのは初めてだった。
「――セラ。何があったのかわかりませんが。それは違うと思います。違います」
 噛みしめるように強く言う。何にも屈しないセラの強い瞳が、今は少し違う。凛々しさも雄々しさも消えた姿は普通の少女だった。違う、ともう一度その瞳にライゼスは念を押した。 「探しましょう。あの怪我では、遠くへは行けません」
 笑いかけると、セラは手を上げて涙をこすった。そして小さく頷いてこちらを見る。その焦点はちゃんと定まっており、表情にも少しだがいつもの調子が戻っていてライゼスはほっとした。だが。
「――答えは、決まった?」
 小雨を縫って、歌うような囁きが届く。
 ライゼスが顔を上げる。いつの間にか、少し離れた位置にクラストが立っていた。音もなく現れた彼が、手を動かす。反射的にライゼスはセラを後ろに庇って進み出た。
「今、どっかの馬鹿の所為で忙しいんです。後にして下さい」
 言いながら手を翳す。夜でなければ、呪文のみでもある程度の威力の魔法を放てる。牽制に構わずこちらに近づいてくるクラストにライゼスはいつでも魔法を撃てるよう身構えたが、セラの手がそっとそれを制した。
「そこを退け、クラスト」
 ライゼスを抜き去って、セラが携えた剣に手を掛ける。そこでようやくクラストは立ち止まった。相変わらずの笑顔はそのままに、ふわりと優雅なしぐさでクラストが右手を振り上げる。警戒するセラとライゼスをよそに、だがクラストが起こした動きはそれだけだった。意図を読めずに警戒を解けないままのセラとライゼスの目の前で、何かが煌めきを放って舞う。輝くそれが何なのか、だが理解してしまえば二人は息をすることさえ忘れた。
 見覚えのある美しい銀色が、小雨を弾いて煌めきの軌跡を描く。酷く幻想的なその景色にセラが凍りついたのは、だが美しさに見惚れたからなどではない。
「目障りだったんだよね、この髪。ボクが引き立たないでしょ?」
 それでも違うと思いたかったことを、いともあっさりと、しかもおよそ納得できない理由で彼は肯定した。その笑顔が霞んで見える。手が震え、かたかたと剣が鳴く。
「言ったでしょ? 奪ってあげるって」
「貴……様……ッ!!」
 セラの瞳が憤怒を湛えてクラストを射抜く。
「ティルに……ッ、何をしたァァァッ!!!」
 走るセラの、冷静を欠いたその大振りの一撃を、難なくクラストが弾き飛ばす。くるくると円を描きながら、あまりにもあっけなく剣はセラの手を離れて大地に突き立つ。すっかり平静をなくしたセラが、焦ってそれを追いかける。
 だが、その手は剣に届かなかった。
「――うおおおおおあああああ!!」
 雄叫びが空を割る。
 セラの手が剣に触れる前に、ライゼスがそれを掴んでいた。そしてそのまま、クラストへと斬りかかる。その先で、クラストの表情から笑みが消える。そんな光景が、見開いたセラの両目に次々に映りこんでいった。
「ラ……ス?」
 かすれた声が雨に溶け、伸ばした手が所在なく雨を掴む。
 重い音と共に、何度も二人の剣がぶつかり合う。セラでさえ見極めるのが困難なクラストの太刀筋を、ライゼスは正確に受け止め、攻勢へと転じて行く。夢でも見ているかのように呆けながら、だがセラはその一方で妙な既視感を覚えていた。
 ライゼスは剣が使えない。少なくともセラは、剣を振るうライゼスの姿など見たことはなかった。なのに、それは確かに知っている光景で、その一瞬セラは状況を忘れて記憶を手繰った。途端、頭の片隅で何かが爆ぜて、一度に視界が赤く染まった。
 目の前で打ち合いを続けるライゼスとクラストの姿がぶれて、別の姿へと形を変える。ライゼスはもっと幼く、そして戦う相手は――よく見知った人物へ。そして彼は剣を振り上げる。それは必殺の一撃になるだろう。理解した瞬間全身が激しく震えて力が抜けた。その抜けた力の全てを声へと転じる。

「やめて――――――!!!!」

 絶叫が赤い空と目の前の打ちあいの、両方を引き裂いた。動きを止めたライゼスのその大きな隙に、クラストがその手から剣を撃ち落とす。それと同時に、ライゼスの体は糸が切れたように崩れ落ちた。彼に取り縋るセラを見下ろしながら、クラストは大きく息をつき、そしてゆっくりと切れた息を整える。そのタイムラグを、強まって行く雨の音が埋めた。
「……セリエラ。失いたくなければボクとおいで。取り戻したければまだ、間に合うかもしれないよ?」
 滑り落ちてきた声に、セラは顔を上げた。雨が頬を濡らして、涙を拭う。
「一緒においで。騎士姫と、その番犬」
 いつもの笑顔を戻して、クラストが優しく囁く。そうして滑り落ちてきた声に、セラは剣を拾うと立ち上がった。
「解った。行こう。ただし」
 剣を握り締め、その瞳に迷いのない強い光を宿して唄う。

「私は誰のものにもならない」

 少女の言葉を受けて、青年は口の両端を持ち上げた。
「ではボクは、きっとその瞳を穢して見せよう」
 二人の瞳が真っ直ぐ交わる。
 雨だけが、それを見ていた。

 ■ □ ■ □ ■

「……どうしても行くんですか、セラ」
 早足に部屋へと戻るセラに追いすがり、先ほどから何度も繰り返している問答をライゼスはなおも続けた。そしてセラも、先ほどから何度も口にした答えを繰り返す。
「ああ」
 彼女が決して前言を翻さないであろうことは、ライゼスにも分かっていることだ。それでも、ライゼスはきゅっと眉根を寄せると、セラの前に回り込み、その進路を止めた。
「僕は反対です」
「知っている」
 足を止めたセラは、てっきり苛立っているものだと思ったがそうではなかった。苦味はあるが、笑みすら浮かべて見つめ返してくる。意外さにライゼスは思わず険しい表情を緩めた。
「セラ?」
「……お前は帰れ」
 しかし、間髪入れずライゼスの表情に険しさが戻る。
「それで僕が、貴方を置いて帰ると思いますか?」
 睨んでも、セラはいつものように睨み返してはこなかった。笑顔のままに言葉を継ぐ。
「ラスこそ、引きとめて私が言うことを聞くと思っているのか? お互い様だろう」
 セラの言い様に、ライゼスは呆れたような溜息をついた。その彼と、苦笑を続けるセラの間に光が差し込む。ようやく、朝日が雲を割ったようだった。セラはライゼスから視線を外すと、その光の差し込む方を見る。回廊から見える中庭中に、雨の雫が輝いている。
「姫はご自分の立場を解っていない。貴方はランドエバーの王女です」
「解っている。……そんな顔するな」
 こちらを見ていないのに、セラがそんなことを言う。きっと傷つけると思っていたから、拍子抜けするのとほっとした思いが混じり合って表情を溶かす。同時に、セラがそれを見越してそう言ったのだと気づく。いつもよりずっと大人びた顔で、セラは朝日を見つめていた。
「前にも言ったが、私は国よりもラスが大事だ」
 言葉の通り、前にも聞き覚えのある言葉を、彼女はもう一度唇に乗せた。そして、こちらを向き直ったセラは、さらにもう一言続けた。
「……ティルもだ」
 眩しいほど強い瞳にこめられた意志は決して動かない。誰より解っているつもりなのに、ライゼスはまだ動けなかった。だがセラはそれを詰りも責めもしなかった。ただ、まっすぐな言葉を投げかけ続ける。
「王家の名を持つからこそ、私は大事なものを簡単に切り捨てられるようにはなりたくない。ランドエバーの名に恥じぬよう、私は行く。胸を張って私の国に帰るために」
 朝日よりもセラが眩しくて、ライゼスは目を細めた。無鉄砲だのじゃじゃ馬だの言われていても、セラは決して王家の誇りを捨ててはいない。どんなに疎んじていても、彼女は国を愛しているし彼女なりに国を案じている。だからこそライゼスもずっと彼女を守り続けてきた。今さらながら、それが間違いでなかったことを強く自覚して両手を握り締める。だが紡ぎかけた言葉はセラに遮られた。
「だから、ラス。私は一人で行く」
 こちらが何を言おうとしたのか、セラにも解っていたのだろう。有無を言わさぬ口調で彼女は先回りする。
「ただでさえお前は謹慎中だった。この上無断で城を離れては……謹慎では済まない。ラスがいない城に帰るのは、嫌なんだ」
 笑みを消して懇願するセラに、逆にライゼスは笑った。
「今さらなにを言っているんですか。謹慎中に出掛けて、姫を連れずに帰ったら余計に大事ですよ。だから貴方は短慮だと言うんです」
 ずばずばと言われ、セラは憮然としたが、事実なので何も言い返せない。だからといって、ライゼスを巻きこめば危険にさらすうえに城での立場がなくなるのも事実だ。だから退くこともできずに再びセラは息を吸う。
「それはそうだが……でも今度ばかりは、だめだ。あのクラストという男、只者ではない。何を考えているかも解らないし、罠かもしれない。国さえ危険に晒すかもしれない。私の行動は間違っているって、本当は解ってる……」
「でも貴方は行くと決めたのでしょう。貴方の信念の元に」
 力を無くしたセラの声を、力強いライゼスの声が遮る。セラは改めて顔を上げるともう一度見慣れた紫の瞳を見つめた。そして、頷く。葛藤はあっても迷いはなかった。いつも自分を叱ってばかりの幼馴染は、今までで一番のこの我儘に、だが満足そうに笑った。
「だったら僕はセラの道を守り、拓く。それが貴方にさえ譲れない、僕の信念です」
 ついに、互いに説得を諦める。それもまた、幼い頃から繰り返してきたことだった。ただ一つ、いつもと違うことがある。セラに進路を譲って、ライゼスは小さくそれを付け足した。
「でも……本当はそれだけじゃないんです」
 歩き出すセラの後姿を視界におさめ、ライゼスが目を細める。
「約束していますから。正々堂々戦うと」
 呟いて、ライゼスは曖昧に笑った。
 朝日は徐々に強まって、彼と彼女の行く先を照らしていった。