さよなら 3



「……探してくれたんだね」
 嬉しそうに笑いながら――本当に、少年のように無邪気な笑みだった――クラストが声を上げる。含みなど何もない、純粋な歓喜がそこにはあったが、セラは渋面になった。
「あんな去り方をされれば誰だって気になる」
「照れなくていいのに」
 こちらに一歩踏み出して、くすっと笑う。だがすぐに細めた眼を開いて、彼はセラの後ろへ視線を延ばした。つられてセラも振り向く。ライゼス、ティル、リュナの他、エズワースやレリアの姿もあった。
「どういうことだ、クラスト? それにセリエス――君達は知りあいだったのか?」
 状況を把握できず、戸惑った声を上げるエズワース、そして駆けつける雇われ兵の足音にクラストは初めて笑みを消すと、煩そうにそちらを見た。
「煩いな。これじゃ落ち着いて話ができないよ」
 その呟きと共に、蒼白い光がうっすらとクラストの体に纏わりつく。リュナが小さく悲鳴を上げた。
『眠れ』  青年の唇が、言葉を紡ぐ。それが、まるで心地の良い子守唄であるように――エズワース親子の体が崩れ落ち、安らかな寝息を立てる。足音が消え、館が静寂に包まれる。
(これは――――)
 同じことが、最近あった。頭が朦朧とし、足から力が抜け、心臓を誰かに優しく撫でられる感覚。無理矢理心地よさを与えられる心地悪さに、セラは呻いた。

『ソウルコマンド!』

 だが、唐突に脱力感は消えた。声の主の方を見ると、驚愕の表情をしながらも差し出したリュナの手から、蒼白い光が零れた。エズワース達は眠ったままだったが、セラ達四人だけは、しっかりと立っている。
「――驚いた。同朋だったんだね。……いや、少し違う……か」
 呟いたクラストの表情には、既に微笑みが戻っている。
「精神魔法は心の隙をつく。その隙をついて、隙を強化する暗示をかけて打ち消す。随分強引な使い方をする……が、キミにはそれでしかボクの力に対抗する術はないよね。しかもその人数が限度だ。……眼帯を外さない限りは、ね」
 もう一歩、クラストが前進する。リュナと彼の距離はまだ広い。だがリュナはそれでも一歩、後退した。
「あなた……」
「お前は、何者だ」
 震えた声を紡ぐリュナに代わり、セラが鋭く問い詰める。クラストはセラに視線を戻すと、目を細めた。
「ボクは――」
 答えながら、さらにクラストはセラとの距離を詰めた。だが、
「それ以上セラに近づかないで下さい」
 ライゼスの静止で立ち止まる。そちらは見ないまま、ふっとクラストは笑声を漏らした。
「……レゼクトラ家の番犬風情が、猛々しいことだね」  そして落とされた言葉にライゼスが警戒を強める。彼が知っているのはセラのことだけではない。殺気めいたものを感じながらも、クラストは余裕を消さなかった。立ち止まったまま、セラに向けて手を差し伸べる――まだ届く距離ではなかったが。
「ボクと一緒に来て、セリエラ。ボクの妃になって欲しい」
 そして慈しみを込めて彼は謳った。予想し得ない言葉に、セラが呆けたような声を返す。
「何を……」
「ボクは、クラスティオ・ツァイ・ウォルフ=ルートガルド。ファラステル大陸北の軍事国、ルートガルドの第二王子だ。キミを妃にできるだけの身分も権力もあるつもりだよ」
 ようやくセラが怪訝な声を上げるが、それを遮ってクラストがにこりと笑う。その自己紹介に、だが反応を見せたのはセラではなかった。
「ルートガルドだと……」
 ティルが唸ると、クラストは思い出したようにティルの方を見た。そして口を開きかけ、閉じる。やや間を置いてからクラストが再び口を開く。
「久しぶりだね、ティルフィア姫。死んだ筈のキミが生きていて、しかも男だったとは――リルドシアの民が知ったら、さぞ吃驚するだろうね? でもそれも、セリエラの返事ひとつだよ。それによっては、忘れてあげてもいい」
「ふざけたことを……。今さらそんな戯言を吹聴したところで誰も信じやしない。レイオスに消されても知らないぜ?」
「ああ、そうだね。ボクも、キミも」
 ティルの嘲笑を受けて、クラストもまた嘲笑でそれを流す。同じ嘲笑でも、敵意の籠ったティルのそれに比べてクラストのそれはどこまでも嘲りしかなかった。あえてそこに別の形容を探すとすれば、愉悦。続ける口調は愉しそうに笑みを含んでいる。
「そう。誰かがそんな戯言を言い出しても、すぐには誰も信じないだろうね。だけど、芽が出るまでは楽観しても、芽が出てしまえばレイオス王子はそれを放置はしない。それは兄弟のキミが一番良く解っている筈だ」
「解ってるなら、俺が餌になり得ないことも解るだろう」
「いや、なるよ。そう――レイオスは、ボクもキミも消そうとするだろう。だがその前に、キミは自分の始末は自分でする。キミはそういう人間だろう?」
 何を言いたいのかを理解できず、ティルが怪訝な顔をする。だがクラストはそれ以上ティルのことなど歯牙にもかけず、笑顔から嘲りを綺麗に消してセラに目を戻した。
「そして、優しいキミはそれを捨ておけない。違うかい?」
 そう言って、クラストがにっこりと無邪気なまでに笑う。そして、まっすぐだったセラの瞳が、初めて揺らぐ。月明かりの下それがはっきりと見えて――ティルは刀を抜いた。
 一瞬後、手に重い衝撃が伝わる。不意をついた攻撃さえ、簡単に防がれてティルは歯噛みした。だが刃を滑らせてクラストの剣を流し、もう一度横薙ぎに斬りかかる。
「一撃必殺がキミの戦闘スタイルだ。それで仕留められなかった時点で、キミの負けだよ」
 それを軽やかに避けて、クラストの足が軽やかにステップを踏む。目にも止まらぬ速さで、クラストの剣が踊る。セラがそれを防ごうと剣に手をかけるその間に、クラストは既にティルへと斬りかかっていた。咄嗟にティルがそれを受けることができたのは、今まで潜ってきた死線が直接脳に警告を伝えた結果で、反応できたわけでもまして考えてのことでもない。ただ、それが効果を成したかといえば怪しいところで、斬りかかってきたクラストの勢いを殺すことまではできず、受けた刀ごとティルが吹き飛ぶ。
「――か、はッ」
 呼吸が止まり、視界が白濁する。遅れて激痛が来て、ティルは呻いた。といっても実際には息と血が口から零れただけだった。止まった呼吸を開始しようとすれば、その都度気が遠くなるような激痛が来る。それでもティルは刀を握り直した。
「やめときなよ。折れたでしょ?」
 それを見下ろしながら、軽い調子でクラストが謳う。そうしながらゆらりと腕を持ち上げたのも、客観的に見れば軽い仕草だっただろう。その軽い仕草で、死角から飛び掛かって来たセラの剣を受ける。闇夜を裂く剣と剣のぶつかる音に、どう考えても力の入らないであろう持ち方と構えでクラストは彼女の一撃を止めて見せた。 「……ボクは、喧嘩しにきたわけじゃないんだけど」
「人の連れを傷つけておいて、良く言う」
 静かな口調だったが、それが逆に限りない怒りを表していた。セラが剣を構えるのを見て、クラストの涼やかな笑顔にもさすがに緊張に似たものが混じる。瞳からは笑みを消して、セラが踏み出すよりも早くクラストが奔る。
「セラ!!」
「ラスは、ティルを頼む!」
 そのクラストの剣をやり過ごしながらセラは叫んだ。そして、後退するとその場から遠ざかるようにクラストの剣を誘導する。その言葉と動きに、ライゼスはセラに駆け寄ることも、援護の魔法を撃つことも諦めざるを得なかった。
「俺に、構うな――」
 代わりに回復呪文を詠み始めたライゼスを見上げて、ティルは舌打ちした。激痛のために言葉は途中で切れたが、ライゼスは複雑な顔でそれを見下ろした。
「構いたくて構ってるわけじゃないですよ。……解らないんですか」
「……?」
「足手まといだと言われたんです。僕は今」
 抑揚のない声に思わずティルは彼を見上げた。ただひとつ共有する想いが故にどこまでも相容れない相手だが、その想い故に解ることもある。それでも、そこまで共有するには、あまりに彼女との距離が違い過ぎて惨めになるから、ティルはライゼスを睨んだ。交錯した視線が、澄んだ音に同時にそちらを向く。何が起こったのか、すぐには誰もわからなかった。二人の視界に飛び込んできたのは――剣を弾かれて空になった自分の手と大きく息を吐くクラストとを見比べ唇を噛むセラで、それがセラでないのなら何が起こったのかすぐに理解できただろう。あのセラが剣で押し負けたのだ。その事実に一番同様したのはセラ自身である。
しかしそれでも怯んだのは一瞬のことで、すぐに身構える。体術に自信がないわけではないが、剣で勝てなかった相手に徒手で勝てる気はしなかった。それでも後ろにはライゼスと負傷したティルがいるから、セラの中に後退の二文字は無い。
 だからとて、その後ろの二人のどちらにも、このままセラに守られる気などない。セラが敵わない相手をどうにかできるとも思えないが、だからこそ彼女を一人で戦わせるわけにはいかなかった。ライゼスが魔法の印を切るため両手を持ち上げ、ティルが塀を支えにどうにか体を起こして刀を構える。三種の殺気を感じてもクラストはなお怯まず、だが少しだけ困ったような顔をして肩を竦めた。
「だからさ。ボクは喧嘩をしに来たわけじゃないんだ。これ以上続けてキミに怪我をさせたくないし、後ろの二人をうっかり殺してしまうのもボクの本意じゃないんだけど」
 前の笑顔と、後ろの切羽詰まった殺気に、セラはすっかり乾いた唇を舐めた。落ち着くために息を吸い、吐く。そしてクラストに注意を向けたまま、まずは一瞥で後ろの殺気を制し、その牽制を続けたまま今度はクラストに向かって言葉を吐く。
「……目的は、なんだ」
「だから、キミだよ。セリエラ」
「嘘だな」
 目を細めて愛しそうにこちらを見るクラストの視線を、拒絶するようにセラは目を伏せた。そして鼻で笑って吐き捨てる。それを見て、残念そうにクラストは眉尻を下げた。
「じゃあ、一晩あげる。考えておいてね――尤も、君に選択の余地はないよ。もしキミが断るなら、キミの大事なものからひとつずつ……ボクが奪ってあげるから。キミが首を縦に振るまでね?」
 残忍な笑みを浮かべながら、青年が背を向ける。その姿が闇に消えるまで、誰も動くことはできなかった。