心の行方 4



 衝動のまま部屋を飛び出し、宿も飛び出してから、だが行くあてなどないことに気付いて、ティルは立ち止まった。あまり不用意にうろついて、そこら中で警戒態勢を続けている騎士に怪しまれたくもない。そんなことになればセラに迷惑をかけることになる。
 だが、入口に突っ立っているわけにもいかず、ティルは裏手に回ると宿の外壁にもたれかかり、嘆息した。どっちみち、いつまでもそうしているわけにはいかないが、せめて頭を冷やす時間が欲しかった。――冷える気がまるでしないのが難点ではあったが。
 いっそ、記憶を失くしてしまいたかった。彼がいないと駄目だと言った、彼女の声も表情も全部。だがそんなものを消したところで、結局なんの解決にもならないことにすぐに気が付く。この胸を焦がすような思いを忘れるなら、彼女に関する記憶は全部消さねばならない。だがそうすれば、きっと生きている理由も共に消えるだろう。彼女が消えた世界など、なんの興味も未練もない。結局解決案などない。
(いや、なくはない――)
 そんな自分の思考を、心の奥底の方で、これもまた自分が否定する。手に入れてしまえばいい。傷つけてでも手に入れると、先日口にしたばかりだ。なのに、避けられれば辛い。憔悴した顔を見ているのも耐えられない。だが、他の男に依存する彼女を見ているのは、もっと痛い。自分を見て貰えないことなどとっくに慣れたはずなのに、これまでのもどかしさや憤りなどまるで比にならない。
 だから叶うなら――どこかに閉じ込めて、誰も見ないように、自分だけのものにしたい。
(――そんなの)
 そこまで考えて、自分の考えを打ち砕くように、外壁を思い切り殴りつける。石造りのそれを加減もなく殴れば、壊れるのは自分の拳の方だった。
(そんなの……父上よりも狂ってる――)
 痛みが、思考の渦から引き上げてくれる。そうして正気には戻ったが、父のことを思い出して陰鬱な気分になった。娘の死を聞かされて臥せってしまったという父は、きっと自分が帰りさえすれば元気になるだろう。だが帰らなければ、このまま弱って死んでしまうのではないかと思う。だが帰ることはできない。帰りたいとも思わない。自分を溺愛するあまり、十数年軟禁して、欲しくもないものを与え続けてくれた彼のそれを、愛だと認めることもしたくはない。だが種類は違えど、今の自分も似たようなものだと自覚すると、吐き気がした。それどころか、自分のほうがもっと醜く、もっと汚らわしいとすら感じる。
「諸刃――ね」
 知らず、昨日会ったばかりのあの少女の言葉が零れていた。その存在があるから生きていられる。だけどその存在があるから、消えてしまいたくなる。確かに諸刃だ。だが手放して生きていける道が見つからない。それには、あまりに他には何もなさすぎた。
 思考を手放し、目を伏せる。ここ数日まるで眠れなかったので、少し眠かった。

「――ティル?」
 呆れた声に、がばりと弾かれたように顔を上げる。こちらを見る翠の瞳は、宿の窓から漏れる灯りをうけて、少し橙がかっていた。それで気付く。さっきよりも、大分暗い。
「俺、寝てた?」
「うん。立ったまま。器用だな、羨ましい」
 立ったまま寝れれば式典とかが楽だな、などと大真面目にセラが呟く。だがさすがにこのときばかりは、ティルにも突っ込む余裕はなかった。セラにしても、ボケたつもりはないのだろうが。
「けど、ティルも眠るんだな。寝てるところを見たことないから、寝てないのかと思った」
「そ、そりゃまあ、さすがに俺も寝ないと生きていけないし」
 だがそんなことまで真面目に言われると、突っ込まないわけにもいかず、多少どもりながらもティルが答える。確かに、命を狙われる生い立ちの所為で、人がいると眠れない体質になっていた。なので、セラが近くまで来ても気づかなかったことに自分でも驚く。よほど今の環境に馴染んだのか、それともセラだからか。
「それよりセラちゃん、もう起き上がったりして大丈夫なの?」
「……ティルが、捜しても見つからないってリュナが言うから。彼女とラスがもう一度捜しに行ったんだけれど、気になったから宿周辺だけでもと思って。灯台下暗しというやつだな」
 そうなんだ、と答えつつ、ライゼスはともかくリュナに悪いことをしたと思う。意図してやった訳ではないが、出会いの一件で彼女には引け目があった。後でまた謝らねばと思うと同時に、ライゼスからも睨まれるのだろうと思うと苦笑が零れた。
「だったら、早く戻らないと。見つかったらまたボーヤに説教されるよ」
「別にいいよ。ティルが見つかったんだから」
 セラが微笑み、鼓動が早まる。それを鎮めようとして無意識に手を握りしめれば、痛みが走った。顔に出したつもりはないのに、セラが敏感に気が付いて声を上げる。
「どうしたんだ、その手」
「転んだ」
 無理がある嘘だったが、セラは何も言わなかった。ただ黙って手を伸ばしてくる。その手が傷に触れようとしているのがわかって、ティルは手を引いた。
「汚れるよ」
「そんなこと、どうだっていいだろ」
 セラは少し怒ったように強引に手を掴むと、服の袖で血を拭った。
「……ありがとう、ティル。お蔭でラスと仲直りできた」
「――そう」
 触れている手が温かい。彼女が口にした言葉はほんの少し痛かったが、笑うことはできた。それは、温かさのお蔭と、セラが笑ったからだった。
「良かった」
 心からそう言うことができた自分にほっとする。――結局。
 諸刃でも、その刃にどれほど傷つけられても、きっと手放すことはもうできないのだろう。
 だけどいつか、その刃を折ることにならないか、それだけが怖かった。