心の行方 2



 書簡を出し終えて宿まで戻り、ライゼスは浮かない顔でその扉を押し開けた。ただでさえ、城に戻るのが遅れているというのに、さらに遅れそうなことが気分を滅入らせる。本当なら、第一王女であるセラがあまり城を離れるのは好ましいことではない。だが、そもそも遅れる原因となったのは前の任務で自分が深手を負ったからであり、そして今回のことも、自分がもっと早くにセラの体調不良に気付いていればよかっただけの話だ。
 城に帰ったら、また重臣には役立たずの側近と罵られることだろう。罵られることが嫌なのではない。実際に役立たずであることが嫌だった。しかし、滅入っている本当の原因は、それもまた別の理由だ。
 必要のない側近であることはずっと前から自覚している。
「……そろそろ、潮時、なのかな」
 そんな言葉が、無意識にぽつりと落ちる。潮時、という響きがやけに苦かった。
 結局同じところをぐるぐる回るばかりの思考にとりあえず終止符を打ち、あとは考えを放棄してぼんやりとセラの部屋へ向かう。
「ライゼスさーん。おかえりなさーい」
 その途中でふいに声をかけられ、ついびくりと肩が跳ねた。
「あ、ビックリしました? ごめんなさい」
 振り向くと、水差しを抱えたリュナがツインテールを揺らして小走りに走り寄ってくる。走りながら、すまなそうに肩をすぼめたリュナに、ライゼスは慌てて笑みを浮かべた。
「いえ、ちょっとぼんやりしてて。――セラは?」
「まだ目覚めてませんが、顔色もだいぶよくなったし、もうすぐ目を覚ますんじゃないかと思って水を汲みに行ってたんです。今はティルさんが看てますよ」
 リュナがティルの名を出すやいなや、ライゼスの顔から笑みは消えた。あからさまに嫌そうな顔をしたライゼスを見て、リュナが少し呆れたような声を出す。
「もう、ライゼスさんたら。ティルさんだって取って食ったりはしませんよ」
「いや、あの人の場合そうとは言い切れないんですよ」
 リュナが大きな瞳をまんまるにして、驚いたようにライゼスを見上げる。
「え、取って食べちゃうんですか?」
「……いや、えーと……」
 どういう意味で聞いているのか測りかねて、ライゼスは目を逸らした。返事をしたときには深く考えていなかったが、事実彼の場合比喩にはならない。少し目を離すと抱きついたり押し倒したりするので、とにかく気が抜けない。リュナは知らないから大袈裟に思えるのだろうが、だからとてティルの女癖の悪さをこの幼い少女に説明するのは、道徳的な意味で憚られる。ライゼスは曖昧に言葉を濁したまま、早足に部屋へと向かった。
「あ、待ってくださいよぉ」
 慌ててリュナが後ろをついてくるのを気配で感じながら、早足のまま部屋の前まで辿り着く。その扉の取っ手に手をかけて、だがそれを引く前に扉は開いた。
「あ、ティルさん」
 リュナが声を上げ、彼女が呼んだ名の人物が部屋から出てくる。勝手に扉が開いたのは、丁度ティルが出ようとしたからだと理解しつつ、ほぼ条件反射でライゼスは彼を睨んだ。だがティルの方はといえば、いつものように挑発的に笑うでも睨み返してくるでもなく、視線が合ったのもほんの一瞬で、すぐに逸らされる。目が合ったのは、合わせたというより合ってしまったのだろう。
 そのまま隣を行き過ぎようとする彼の様子に違和感を覚え、咄嗟にライゼスは声をかけた。
「セラに何もしてないでしょうね?」
 返事もなければ振り返りも立ち止まりもせず、こちらを完全に無視する形で、ティルの姿は廊下の向こうにすぐに消える。
「…………」
「ティルさん、また機嫌悪そうですね。いつもこうなんですか?」
 無言でそれを見送るライゼスを見上げ、リュナが問う。
「……いえ」
 否定だけして、ライゼスは惰性で閉まりかけた扉を止めた。
 長い付き合いではないが、不本意ながらもティルと行動を共にするようになってから、それなりには月日が経つ。だがあんなティルを見たのは、ライゼスも初めてだった。それに、放っておけば絶対にセラにまとわりついている彼が、自分でセラの部屋を出てきたというのもおかしいといえばおかしい。
(……まあどうでもいいですけど)
 だが、そんな疑問はその一言で綺麗に片づけて、ライゼスは部屋へと足を踏み入れた。その途端、明るいアイスグリーンの双眸がこちらを向いた。
「セラ!」
「セラさん、目が覚めたんですね!」
 ほとんど間髪入れずにリュナも歓声を上げ、水差しを抱えたまま走り寄って行く。見ない顔が視界に入り、セラはリュナへと視線を移した。
「――君は?」
「初めまして、リュナです」
「ああ、もしかして君が私の面倒を見てくれてたっていう……」
「はい。その、セラさんが倒れたのはあたしのせいなんです。周りに人がいるなんて気付かなくて、不用意に魔法を使ったりしたから」
 声のトーンを落とし、リュナが沈んだ表情をする。事情はよく飲み込めていなかったが、余りに少女が申し訳なさそうにしょげるので、セラは片手を伸ばすと少女の肩に手を置いた。
「よくわからないが、別に怪我はないし、ゆっくり眠れて気分がいいし、気にしないでくれ。そうだ、着替えをありがとう」
 鋭い瞳を和ませて、セラはすっかり顔色の良くなった表情に微笑を浮かべた。端正な笑顔に見つめられ、リュナが頬を赤くする。
「は、はいっ、いえっ、そのっ。リュナは、だってリュナが悪いのでっ」
 同性だと解ってはいても、つい見惚れてしまい――急にしどろもどろになったリュナを、セラは不思議そうに見つめた。見つめられ、ますますリュナが目を泳がす。だが彼女がそんな態度を取る理由がセラには解らない。困ってついライゼスの方に目を向けるが、ぎくしゃくしていたことを思い出して余計に困ることになった。
「……すまない、心配かけた」
「……いえ。何ともなくて良かったです」
 それでもそのまま逸らす訳にもいかず、恐る恐るセラは詫びた。何か小言を言われるものと覚悟していたが、彼はそれ以上は何も言わなかった。それはそれで気まずい。他の話題を探してふと思い当たり、セラは再び口を開いた。
「そういえば、ティルは?」
「入口ですれ違いましたけど、そのまま出て行きましたよ」
「おかしいな……二人を呼びに行くと言って出て行ったんだが」
「あの人が? 僕を? 何かの間違いじゃないですか?」
「いや、まあ、私も何かおかしいとは思ったんだが……」
 だが、考えたところでティルが何を考えているかなど解る訳もなく、二人とも押し黙る。
 沈黙が訪れると、また気まずい空気が流れた。互いに、何か言おうとするのに言葉にならない。そんなぴりぴりした空気を感じたのか、ふいにリュナが「ええと」と声を上げた。
「あの、あたしティルさんを捜してきます」
「いいですよリュナ。放っておけば帰ってきますよ」
 別にライゼスとしては、帰ってこなかったところでさほど困りもしない。それよりも、この場にセラと二人残される方が気まずいのでそう言う。だがそんなライゼスの心情を知ってか知らずか、リュナは首を横に振ると、出口の方まで歩いて行った。
「そろそろ夕飯ですし。行ってきます」
 ぱたん、と軽い音を立てて扉が閉まった。