隻眼の少女 2



 力を失ったセラの体が地面とぶつかり、ばしゃりと泥水が激しく跳ね上がる。
「セラ!」
 雨を跳ね除けるほど強く、切羽詰まったライゼスの声が空気を裂いた。
「セラ!? しっかりして下さい!」
 抱き起こして声を掛けても返事がない。顔に触れると、雨に濡れているにも関わらず少し熱かったが、倒れるほどの熱でもないように思う。外傷は見受けられない。双眸は固く閉じられ、呼吸は穏やかで、ただ眠っているだけのようにも見える。だが急にそんな状態になった理由がわからず、ゆり起こすのをひとまずやめる。下手に動かしていいものか、判断がつきかねた。
 とにかく、雨も止まない中に寝かせておくわけにはいかない。ライゼスが彼女を抱きあげかけたときだった。
「……えっ」
 さっきの声――幼い少女の声が再び耳に届く。茂みの向こうに、小さな人影が見えた。レインコートで体を覆っていて顔もよく見えないが、かなり小柄だ。それを確認した瞬間――それまで呆然としていたティルが、唐突に動いていた。
 その刹那、彼が刀を抜いたののが見えて、ライゼスもまたセラの体を離して動いていた。その一瞬後に、甲高い悲鳴が走り抜ける。
「きゃあああッ」
 ばしゃりと音を立て、小柄な体が尻もちをつく。その眼前に突きつけられる筈だった刀の前に、間一髪でライゼスは立ちはだかっていた。
「――何をするつもりですか」
「セラに何かしたのは、こいつだ」
 問いかければ、ティルからは冷たい声が返ってきた。雨も凍らせるほどの冷たさは、声だけでなく瞳も同じで、無表情な美貌にはぞっとするのを禁じえない。目の前の刀は、今にも自分ごと、後ろの人物を突き刺しそうな殺気がこもっていたが、それでもライゼスは退かなかった。
「だからって、殺す気ですか。子供ですよ」
「関係ない」
「少し落ち着いてください」
 溜め息と共に落としたライゼスの言葉が、怒気に近い苛立ちを含む。
「セラに何かしたのがこの子なら、尚のこと何をしたのか聞かないと、治療もままならないじゃないですか。その為にも、殺されては困ります。そんなことくらい、貴方にだって解っているでしょう?」
 強い語調で述べると、ぐっとティルが言葉に詰まったのが解った。それと同時に、刀からも殺気が消える。それでもいくぶんほっとしてライゼスが息をつくと、彼は刀を引いた。そして無言のまま踵を返し、セラの方へと向かう。それを放っておくのは気が進まなかったのだが、後ろで座り込んだままの少女も放っておくわけにもいかなかった。さすがにこの状況でティルもふざけたことはしないだろうと信じることにして振り返る。
「大丈夫ですか」
 見下ろすと、尻もちをついた拍子に外れたのだろう――フードが取れて、顔が露わになっている。ピンクベージュのツインテールに蒼の瞳。だが右目は幼い顔に不釣り合いな、黒い眼帯で覆われている。
「あ……ありがとう」
 酷く動揺しながらも、少女が礼を述べてくる。助かったことは理解したのだろうが、左目にはまだ恐怖が宿っていた。
「すみません。怖い思いをさせて」
 そのことに気付いて、ライゼスはできるだけ優しく声をかけながら、まだ座り込んだままの少女に手を差し伸べた。ゆっくりと、彼女の瞳の焦点がその手に定まる。
 少女はその手を取ることなく自分で立ち上がった。
「えっと……ごめんなさい。あの、そのひと……、あたしの魔法に巻き込まれたんですよね」
 詫びるライゼスに逆に詫び返し、少女はしゅんと肩をすぼませた。
「あたし、野盗に襲われて――他に人がいると思わなくて」
 いきなり殺されかけたショックがまだ抜けきっていないのだろう――少女の言っていることはどこか要領を得ていない。だがライゼスの方も、彼女が落ち着くのを待っているだけの余裕はなかった。
「その魔法に巻き込まれたら、どうなるんですか? どうすれば治せますか?」
「人を傷つける魔法じゃないし、そのうち自然に起きると思う。……一応、様子見せて」
 それでも、ライゼスの問いに彼女はしっかりと答えた。後半は、セラを抱いたティルに向けて、おずおずと言葉を発する。手負いの獣のように殺気立った視線が返ってきたが、少女は意外にも怯まなかった。
「様子が見たいだけ。もしあたしがその人に何かしようとしても、貴方ならその前にあたしを殺せる。でしょう?」
 やけに大人びた声に、怯んだのは逆にティルの方だった。ライゼスまでも驚いて彼女を見る。隻眼の少女はそれに構わずティルに歩み寄ると、背伸びして、その腕の中で眠るセラの顔に手を当てた。
「大丈夫、眠っているだけです。でも少し熱があるから早く休ませないと。どこに行くつもりだったのか解らないけど、ここからならミーミアが近いわ」
 言うなり少女は、ミーミアの街の方角へと足早に歩きだした。それを追えば、なし崩し的に彼女を同行させることになる。一瞬迷ったライゼスだったが、今は一刻も早くセラを休める場所に連れて行きたかったし、それを優先するなら問答の余地はない。
 セラを抱いたままのティルを振り返ると、彼も判断を迷っているようだった。
「……行きましょう。今はセラを休ませないと」
 ティルは何も言わなかった。ただ視線だけをこちらに向け、それも一瞬のことだったが、それが了承の意だったのだろう。すぐに歩きだした彼の瞳は酷く虚ろで、いつもの余裕はどこにもない。できればセラを受け取りたかったのだが、どこか哀しげな表情にそれ以上声をかけることができずに、結局ライゼスも黙ってその後を追った。