姫は誰のもの 1



 どうしようもない浮遊感。頭上にぽっかりと開いた穴はすぐに消えて、暗闇が目を襲った。なにも見えないのに、落ちていく感覚だけはどうしようもなくわかる。だけど震えるのはそのせいじゃなく、顔や首に滴ってくる温かい感触の所為だ。
「ラス!」
 かすれた声で、セラが叫ぶ。いつでも、どんなときであろうと、必ずこたえてくれる彼が、こたえない。だが、掴まれた手が決して離れないことだけが、セラの心を正気に繋いでいた。だから名を呼び続ける。その間も落下は止まらず加速を続け、このままでは底に叩き付けられて痛みすらわからずに死ぬ。それまでもう幾ばくもないだろうに、その恐怖より手が離れることの方が怖くて、セラはまた呼んだ。やがて、繋がった手に、僅かな力が伝わってくる。
 はっとして、セラは目を凝らした。辛うじて、間近にライゼスの姿を捉え、どうにか逆の手を伸ばして彼を掴む。すると、繋がれていた手が離れた。
「ラス……ッ」
 ぞっとして、叫ぶ。だが、背中に回る腕の感触で、最悪の考えはすぐに払拭された。だが次にやってきたのは、どうしようもない苛立ちと悲しみだった。強く抱き寄せられる。否、抱え込まれる。それは、自分を衝撃から守るためだと気づいた。自分の身も省みずに。
「やめろ、 離せ!」
 精一杯もがくのだが、振り払うことはできなかった。代わりに、荒い息を含んだ声が、かつてないほど近くで聞こえる。
「暴れるな……ッ!」
 有無を言わさないその口調に、咄嗟にセラは動きを止めた。言うことを聞いたというより、驚きに支配された方が強かった。

『ひ、光よ……、我が背に寄りて……光鱗の翼となれ!!』

 苦悶が滲む声が、途切れ途切れにスペルを詠む。そしていきなり視界から闇は晴れて、落ちていく感覚が嘘のように消えた。いよいよ底に叩き付けられて死んだのかと思ったくらいだった。だが、すぐに違うと気付く。
「……ラス」
 死人のように血の気がない顔に手を添えて呟くと、少しだけ彼は目を開けた。涙がたまってぼやける視界に、それが映る。死を免れたことよりその方がずっとセラに安堵をもたらして、同時に強い哀しみも連れてくる。
 ライゼスの詠んだスペルの効果なのだろう。彼を核に光が周囲を包み、ゆっくりと落ちていく。ふわりと地面に降り立つと、ゆっくりと光は消え、それと同時にライゼスからも力が抜けて行った。慌ててセラはその体を支え、倒れないように床に座らせる。だが彼の手は、まだ強くこちらを掴んだままだった。
「ラス、離して。早く傷を手当しないと」
「大丈夫……です」
 焦りの見えるセラの声に、小さな、だけどはっきりとした声でライゼスは答えた。
『光よ、我が前に集いて再生の奇跡をもたらせ。起死回生(リザレクション)』
 また闇が晴れる。その中で、ライゼスは今度はしっかりと目を開けた。そしてセラから手を離す。治癒の光が消える前に、それとは別にライゼスは小さい灯りを作った。
「……すみません。無礼な口を聞いて」
「馬鹿!!」
 しっかりとした声と口調でライゼスが話し出すと、安堵と共に怒りや悲しみやよくわからない感情までが、堰を切ったようにセラの胸にせりあがってきた。それらは全部混ざり合って苛立ちへと変化する。そしてそれはそのまま怒号となった。
「お前は何度言えばわかるんだ! 私は、私だけ助かるつもりはない!」
 胸から喉にかけて熱の奔流を感じながら、しかし頭だけが妙に冷めているという妙な感覚に、セラは捕らわれていた。
 ライゼスが過保護なのは今に始まったことではない。立場上、自分だけが助かるわけにいかないのがライゼスの方であることも、理解できない訳ではなかった。だというのに、喉を駆け上がっていく熱を抑えられない。それに何か既視感のようなものを覚えるが、冷静な筈の思考でも怒りを収めることはできなかった。しかし、どうせ――こうして怒鳴ったところで、ライゼスが言うことを聞かないこともわかっているのだ。
「何回言われても、僕はまた同じことをしますよ」
 そう言うライゼスは、同じ瞳で、同じ口調で、やはりセラの言葉に動じたりはしなかった。普段、よく彼から頑固だの意地っ張りだの言われるセラだが、セラに言わせればライゼスの方が余程そうだ。そう言ってやろうと口を開いたが、ライゼスが言葉を続ける方が早かった。
「セラが姫だからというわけではありません。それに、強いとか弱いとかも関係ないんです。僕はセラが傷つくのは嫌だ。だから守りたい……そう思っては駄目ですか?」
「……だったらわかってくれ。私だってラスが傷つくのは嫌だ」
 真摯な眼差しに、熱が冷めていくのを自覚しながらも、セラは抗い続けた。冷たい石の地面を掴むように爪を立て、振り絞るように口にしたのは、こちらとしても譲れない主張だった。それを受けて、ライゼスが尚も何か言いかけて息を吸うのが見え、セラは身構えた。だが結局、その後彼の口から出たのはため息にも似た吐息のみだった。
 逡巡するように、ライゼスは虚空に瞳を巡らせてから、一拍おいて、また息を吸った。
「守りたいと思うことでセラが傷つくなら……僕はセラの傍にいない方がいいですか?」
 逆に、セラは息を飲んだ。出ない結論についてあれこれ思い悩むのは、あまりセラは好きではなかった。頭が痛くなるだけで結局良い答えが出た試しなどない。だが単に最後のライゼスの問いに答えるだけならば、容易だ。
 どんなに喧嘩しても、どんなに傍を離れようと思っても、いつも、結局は。
「……嫌だ……」
 それだけは、認めた。ほっとしたように、ライゼスは微笑んだ。
「僕も嫌です。良かった。言ったものの、聞かなきゃ良かったと思いました。忘れて下さい」
 ライゼスがいつもの調子に戻って言う。無理をしてそうしていることは明白だったが、セラもこの件について固執する自分の思いを一度切ることにした。言い争っている場合ではないことを思い出し、立ち上がったライゼスが差し伸べてくる手を取って自身も立ち上がる。
「怪我、大丈夫か」
「治しましたから」
「でも失血しただろう。顔色も悪い。無理するな」
 頬に触れると、いつもより冷たい気がした。なのに逆に、顔色は良くなった気がする。
「……少し、血色が良くなったな?」
「き、気のせいだと思います、よ!」
 顔を覗き込むと、ぎこちない声が返ってきた。不思議そうに見つめると、目を反らされる。
「怒ってるのか?」
「お、怒ってません。ていうか、姫。この際だから言いますけど」
 いきなり説教をし出しそうなライゼスを意味がわからず見上げながら。だがふと彼の表情が変わる。その理由にも気付いてセラは剣を抜いた。そしてそのまま勢いをつけ、背後の殺気を薙ぎ払う。確かな手応えの向こうで、小柄な少女がぐらりと傾く。どす黒い殺気と釣り合わぬ姿に、一瞬セラはどきりとした。しかし、剣が抉った場所から腐臭を放つ黒い液体が飛び散ると、今度は驚愕に息を飲むことになった。ぐるん、と少女が白目を剥き、口が歪む。胴に剣を食い込ませたまま、体液を撒き散らしながら、少女――否、少女であったものが、セラとライゼスに向かって手を伸ばす。

『光よ!』

 おぞましさに思わずセラが凍り付いている間に、その後ろからライゼスの光が少女を灼いた。苦悶の声もなく、さらさらと少女が灰になる。
「な、何だ……今のは」
「セラ……」
 魔法で周囲を照らしたライゼスが、震える声で呼ぶ。それに倣って周囲を窺い、セラもまた戦慄した。そこら中にドレスを着た少女が倒れている。積み重なるように。壁にもたれるように。無造作に。特に腐臭などはしない。血が流れているようにも見えず、外傷も見当たらない。血の気がない真っ白な肌をして、彼女らは眠っているようにも見える。だが、一番近くの女性に恐る恐る近づいたライゼスは、手首を取って首を横に振った。
「……死んでます」
「これが、伯爵の元に行った女たちの慣れの果てか……? こんな……でも……」
 だが何故だろうとセラは首を捻った。伯爵は二十年近くも女を集めていた。このおびただしい女の数を見ても、その話は本当だったのだろう。だが、女たちの年齢は一律にみな十代後半〜二十代ほどで、腐敗も白骨化もしていない。
「これが、永遠の美なのでしょうか……」
 釈然としない声でライゼスが呟く。その呟きに、セラが「まさか」と苦いものを吐くように声を出した。こんなものを望んだ女などいないはずだ。この中に一人とて、きっと。
 渋面になる二人の傍で、だが唐突に殺気が膨らんだ。
「!」
 ライゼスが顔色を変える。今しがた死を確認したばかりの女に、手首をきつく掴まれていた。振り払おうとしても離れない。女の力ではなかった。
 ヒュッと、空を切る音がして自由が返ってくる。セラの剣が、女の手首を斬り払っていた。
「ラス!」
『光よ!』
 促されて、咄嗟にライゼスは魔法を放った。目の前の少女が灰になって落ちる。だがその頃には、あちらこちらで新しい殺気が次々に生まれていた。
「悪夢だな……」
 うんざりしたように、セラが零す。背中合わせに立って身構える二人に、一斉に女たちが襲い掛かった。