白き村の吸血鬼 4



 カルヴァート伯爵はそこで初めて、笑みを消した。
「……母だと? 君はフィアラの子だと言うのか?」
「ああ。この顔が証拠だ。赤の他人にしては似すぎだろ?」
 自分を指してティルが言う。伯爵はしばらくティルをじっと見つめていたが、やがて「ククッ」と笑った。さっきまでの笑みとは質が違う。残忍な狂気を伴った笑みだ。
「いい笑顔じゃねーか。さっきまでよりずっとマシだぜ」
 ティルの方は依然余裕の笑みを保ったまま、軽口を叩いた。じり、と伯爵が歩を詰める。
「そうか。フィアラとあの男の子か。私の贄として、これ以上の素材はないな」
「冗談。貴様の生贄になってやる義理はねえよ。それに、俺はこの世にまだ未練がある」
 ふぅっと。その瞬間、伯爵の姿がブレて見えた。まるで焦点がずれたような感覚に目をこすりたくなるが、その衝動を押さえる。そんな暇がないと直感が告げていた。その感覚を信じて刀を抜く。澄んだ音が、広間にこだまする。
(……ッコイツ!? 剣なんて持ってたか!?)
 目の前の光景に、ティルは焦りを隠せなかった。思わず笑みも消え、こめかみに嫌な汗が滲む。目の前に自分の 刀があり、さらにその向こうに、白銀の西洋刀があった。見た限り伯爵は帯剣していなかったはずだ。驚愕に歪むティルの顔を見て、伯爵がにやりと笑みを深くする。驚愕すべきことはそれだけにではなかった。細身の体には釣り合わない力の強さは、拮抗すれば負けると瞬時に判断できるもので、ティルは舌打ちすると刃を滑らせて伯爵の剣を受け流した。羽織っていたショールが、肩を滑って落ちた。
持久戦は苦手だった。早いうちに片をつけたくて、会話で隙を誘うことにする。
「攫った女はどうした?」
「無論私の贄になった。愚かしい女たちだ。永遠の美と言うだけでなんとも甘美な夢に沈める」
「自分だって自分の若さのために女を騙して犠牲にしてんだろ。どう違うんだよ」
 伯爵の顔から余裕は消えない。いつでも御せる自信があるのだろう。事実、悔しいが勝てる気はしなかった。だが大人しく負けてやる気はない。自分の命に価値は感じないが、先述の通りティルには未練があった。
「……永遠の美を与えられる価値があるのは私とフィアラだけだ。それに、騙しているとは心外だ。私はちゃんと与えている」
 ふと、伯爵の目がティルの背後に向いた。罠かもしれないと思いつつも、咄嗟に後ろに意識を向ける。結果としてそれは正しかった。
 バァン、と扉が開き、背後から思い切り首を絞められる。多少なりとも背後を気にしていた為に、その手に力が篭る前には動くことができた。刀の柄で、背後の人物の腹部を思い切り突く。苦悶の呻きと共に、襲撃者が後ずさる。
「……!?」
 その姿を横目で見て、ティルは息を呑んだ。襲撃者は、さきほどここまで自分を案内してきた女だった。だが気配も動きも力も、とてもさっきの女のものとは思いがたい。
「その女は、十年ほど前に来た女だ。どうだ? まだ少女のままだろう?」
 伯爵が嘘を言っていない保証はどこにもないが、どう見ても女は十七・八以上には見えなかった。だがそれはさきほどの話だ。今は、目は正気を失って、口は裂け、操り人形のようにがくがくと動いている。少女どころかまっとうな人間にすら見えない。まるで悪夢を見ているような事態に、だが呆然としている暇はない。
 叫び声をかみ殺し、ティルは動いていた。再びこちらへと襲い掛かろうとしている彼女を、だが動き出す前に一刀の元に斬り捨てる。
「酷いことをするね」
「……貴様ほどじゃねぇと思うが」
 女が撒き散らした血は黒く、異臭を放っていた。空を切ってそれを払い、再び刀を伯爵へと向ける。
「悪趣味にも程がある」
「何故。私は望みを叶えただけというのに」
「いやぁ、これは望んでなかったと思うぜ?」
 軽口を叩きながら、走る。口調こそ変わらなかったが、ティルの怒りはとうに沸点を超えていた。衝動のままに斬りつけるが、あっさりと阻まれる。
「ちなみに俺もご免だ」
「残念ながら、お前の意志は関係ない」
 今度は、力の限りにギリギリと競り合う。だが本気で力を込めても、伯爵の顔からは涼やかな笑みは消えない。明らかに分が悪い。
「――未練があると言ったな」
 ふと、伯爵は口を開いた。楽しいことを思いついた子どものような笑みと声がぞっとしないが、あえて乗ってやることにした。なんでもいい、機会が欲しかった。
「あるぜ」
「なんだ」
「……抱きたいひとがいる」
「いい理由だな」
 にこりと伯爵は笑った。その笑みに、一瞬意識が霞む。
「お前は美に興味はないか」
「……ないね。むしろいらない」
「そうか? だが美しくないお前に、お前の想う者は興味を持たぬかもしれぬぞ」
「そんな安いひとじゃねーよ」
「どうかな」
 問答を交わしながら、だが喋るごとに、頭の奥が滲んでいく。
「――どうかな?」
 もう一度伯爵が、強く問う。ドキリと心臓が跳ねて、だがティルは渾身の力で剣を跳ね上げると後ろに跳んだ。 「惑わすなよ。妙な力だな。けどそんなんで惑うほど、俺も安くねぇぜ」
「では何故鏡を割った」
 どくん、と。今度こそ、さっきの比にならぬほど、心臓が大きく脈打った。体中がざわつき、鳥肌が立つ。
「……なんで……」
「強い思いと惑いは比例する。お前の想いが安くないほど、お前は堕ちるんだよ」
 笑いながら、伯爵が近づいてくる。だが顔が上げられない。耳鳴りがうるさく、脳を震わせて吐き気がする。
「…………ッ」
「さあ。私の贄になるんだ」
 甘く囁く声は、酷く近い。毒づきたいのに声が出ない。金縛りにあったような体が――
――だが、たった一言で、簡単にほどけた。

「ティル!!」

 堪らなく焦がれた、堪らなく愛しい声が、呼ぶから。
 ティルの唇は笑みを結んだ。