新たな任務 1



カーテンを通して差し込んでくる日の光が、瞼の中にまで浸食してくる。その眩しさに少年は目を覚ました。開かれた双眸の色はリラの花びらのような清楚な紫、起き上がる拍子にサラリと揺れた髪は光弾く金色。寝ぼけ眼をこすりながら起き上がると、少年はベッドに座ったまま重い腕を伸ばしてカーテンを開けた。しかし陽の高さを見るや、あどけない顔がみるみる歪んだ。
「寝過ぎた!」
 慌ててベッドを降りて身支度を整える。
 部屋を飛び出して階段を駆け降り、洗面所に駆け込み顔を洗い、マントを羽織って少年は誰もいない家を飛び出した。
 彼の一家は、彼を含めて全員城勤めである。父は騎士団総隊長。母は元親衛隊長で今は国王の相談役。妹は親衛隊副隊長。そして彼は騎士団第九部隊長兼、王女の教育係だった。名をライゼス・レゼクトラという。
 部隊長といえば聞こえがいいが、第九部隊はあってないような部隊だ。とくにこれといって仕事があるわけではない。かといって王女の教育係。これも名ばかりのものだった。何故なら教育を受けるべき王女が、ことごとく授業をサボるからである。
 しかし、だからといって教育係が遅刻をしては示しがつかない。相手が高確率で城を抜け出して授業をサボタージュするとしてもだ。逆に言えば低確率でいることもある。
 とにかく、全力疾走で城まで駆けて、急いで講義室をノックする。しかしというかやはりというか、返事はない。定刻より五分遅れ。授業をすっぽかされて呆れる気持ちとほっとした気持ちがないまぜになる。
 だが、本人がいないからといってそれで仕事が終わるわけではない。いないのならば探さねばならない。心当たりのある場所と言えば―― 
 ばぁん、と。派手な音を立てて、ライゼスは騎士宿舎の扉を開いた。平素、騎士隊長の父がそんな風に乱暴に宿舎の扉を開けると激怒するライゼスだが、そんなことは今は忘却の彼方だ。
「セラ!」
 ほぼ怒鳴るように叫ぶと、宿舎のテーブルについていた人物が、びくりと椅子に座ったまま数センチほど跳ね上がった。
 頭の高い位置で一つに結わえた長いアッシュブロンドに、鋭いアイスグリーンの瞳。青年のように凛々しい顔立ちをしているが、今しがたライゼスに呼ばれた対象人物である。即ち、ランドエバー王女、セリエラ・ルミエル・レーシェル=ランドエバー――通称セラ――その人だ。そして、整った顔を気まずそうに歪める彼女のすぐ真横には、ライゼスの怒りなど何処吹く風で悠々と座っている美貌の主がいた。絹糸のように滑らかな光沢を放つ長い銀髪と、澄んだ空を映したような碧眼。誰もが溜め息をついて見惚れることは間違いない。どこから見ても絶世の美少女だが、残念なことに「少女」ではない。
「そんなに怒ってどーしたんだよ、ボーヤ」
 外見とのギャップも甚だしい言葉遣いで、彼はライゼスを見た。背もたれに顔を乗せるような恰好で椅子に座り、ギシギシと揺らすその様子も、男物の黒のジャケットも何もかも風貌と合っていない。
 ライゼスは彼に一瞥をくれただけで、すぐにセラへと視線を戻す。
「今は授業の時間ですが? どうしてこんなところにいるんです」
「そんなに怒るな。今から行こうと思っていたんだ。ほら、今日は宿題も全部終わってる!」
 バッと紙束を前に出して、セラが言い訳を口にする。
「宿題を全部……?」
 授業すらサボるセラが、宿題をやっていたことなどほとんどない。本来なら諸手を上げて喜ぶところだが、ライゼスは疑わしい視線を送るのみだった。それでも一応はセラから紙束を受け取りパラパラと中を確認する。
 そして、ライゼスは大きな溜息をついた。
「これをやったのは貴方ですよね、ティルフィアさん……?」
 睨み付けられて、ティルフィアと呼ばれた少年は嫌悪感を顔中に広げた。彼は本名を呼ばれることを極端に嫌う。ライゼスはそれを知っていて、あえて呼んだのである。一方、ティルフィアの方も挑発だと理解はしていても、流せない。
「何かショーコでもあんの……? ボーヤ」
 一触即発。
 それは犬猿の中であるこの二人の日常茶飯事なのだが、今回は原因が原因なので、セリエラもいつものように放っておけない。
「待ってくれラス。話を聞――」
「証拠なんて、全教科一問も間違いがない時点で充分ですね。数式の途中式まで何もかも完璧、そんなことセラができるわけないじゃないですか。大体、セラはもっとミミズがのたくったような、解読困難な字です!」
 謝罪の言葉を口にしかけたセラだったが、ライゼスの言葉になんとも言えない複雑な顔をするセラだった。
■ □ ■ □ ■
  光に守護されるという王国、ランドエバー。この国が有する精鋭の騎士団は、平穏のこの時代にあっても大陸を越えて有名である。
 その、精鋭の騎士団。即ちランドエバー聖近衛騎士団であるが、現在は専ら自衛の為にその力を行使している。戦争が過去の歴史となった今でも、治安を維持し、民の安全を守るため、騎士達は多忙な日々を送っている―― 一部を除いて。
 その、一部。即ちランドエバー騎士団第九部隊である。表向きは特殊派遣部隊とされているが、実際のところは『諸々の理由によりどの部隊にも所属できない』騎士が属する部隊なのである。その筆頭がセリエス・ファースト。若いながら剣の腕は正規の騎士になんら引けをとらないのだが、それでも騎士として認められない理由がセリエスには存在していた。本名、セリエラ・ルミエル・レーシェル=ランドエバー。たったひとりの王家の跡継ぎだったのである。
 彼女は身分も性別も隠して騎士の登用試験を受け、そして見事一発合格した。しかしその日のうちに騎士隊長に正体を看破され、父王の前に突き出されてしまったのである。
 王女でありながら強く騎士の道を望んだセラ。そんな彼女は、堅苦しい礼儀やじっと授業を聞くことが酷く苦手だった。
「だからさー。本人がやりたくないことを無理矢理やらせたってしょうがないでしょ」
「だからといって、貴方が姫の宿題をする理由にはなりません!」
 セラの宿題をめぐるライゼスとティルの言い争いは、時刻が昼に差し掛かっても続いていた。
「可哀想で見てられなかったんだよ」
「だからといってこんなやり方が、本当に姫の為になると思いますか?」
「うるせーな。なんで俺がボーヤに説教されなきゃなんねーんだ」
「もういい、やめろ!」
 終わる気配のない争いに溜まりかねて、セラはついに大声を上げた。
「私が悪かった。最初は真面目にやるつもりだったんだが、間に合わないと思ってつい魔が差したんだ。だから二人とも、喧嘩はもうやめてくれ」
 このままじゃ夜になってしまう、と余計な一言はさすがに飲み込んだ。この二人の日常的な言い争いには辟易しているものの、今回はどう考えても自分が悪い。セラは散らかった紙束を集め、立ち上がった。
「今から授業受けるよ」
 肩を落として歩き出すセラの様子に、さすがにライゼスもティルも罰が悪そうにお互いから顔を背けた、そのとき。
 セラが開けようとして手をのばした宿舎の扉が、バァンと乱暴な音を立てて開いた。突然のことに、セラがびくりと肩を跳ねさせる。
「よう! お三方、暇してるー……っと、姫。こりゃ失礼」
 陽気な声を上げた来訪者は、びっくりした顔のセラを視界に見止めて、全く済まなそうではない様子で詫びた。
「父上! 扉は静かに開けて下さいと何度言ったら」
「……さっき同じような開け方してたヤツにも言ってやったら?」
 ここぞとばかりに皮肉を言うティルを睨みつけて黙らせ、ライゼスは父――騎士隊長ヒューバートの方に向き直った。
「一応総隊長なんですから、他の騎士の模範になるような態度を示してもらえませんか?」
「うーん、俺もしたくてやってるわけじゃないからさ。ていうか、来てたんだ? 朝爆睡してたから、寝坊してるかと思ったぜ」
 やはり微塵も悪びれるような様子はなく、しゃあしゃあと笑顔でのたまう。わざとこちらを苛立たせようとしているのかと勘ぐりたくなるが、何も考えてないだけの可能性の方が高い。
「そう思うなら起こしてくださいよ……? 久々の休みだというのに一切家事のできない父上と母上のために、昨日僕がどれだけ働きづめだったと思ってるんですか?」
「だから起こさずに寝かしといてやったんだよ。優しさだよ。あ、母上には優しさを期待するなよ? まあどうせお前ロクな仕事ないんだからいいじゃん。いっそレゼクトラ家の主夫になれば?」
 絶句するライゼスに構わず、ヒューバートがからからと笑う。
「……なかなかエグいよね、ボーヤの家族は」
 ライゼスのコンプレックスを抉るようなことを悪気もなくホイホイ口にするヒューバートに、ティルが思わずそう零す。ライゼスはない気力を振り絞って、どうにか皮肉を返した。
「貴方に言われると、なんだか自分の家庭に自信がなくなります」
「違いねぇな」
 言い返してくるかと思ったティルは、苦笑と共にあっさり肯定した。自分の家庭環境の劣悪さを申し開きする気はないらしい。
「そこでコソコソ人の悪口言わない。暇な皆にせっかく任務持ってきてあげたんだから〜」
 だが、ヒューバートがにこっと笑ってそんなことを口にすると、一瞬で二人は口をつぐんだ。そして三人の――主にセラの視線が、彼に釘付けになる。
「任務!? 本当に!?」
「あー、年頃の女の子が任務で瞳をきらめかせない。陛下がお呼びです、詳しくはそこで」
 聞くなり飛び出していこうとするセラを、ライゼスが慌てて引き止める。
「姫。授業は」
「あとで必ず受けるよ。でも、任務の後でもいいよな?」
 きらきらした瞳で詰め寄られると、ライゼスもそれ以上は言えない。なんだかんだで、ライゼスもまたセラには甘いのであった。