15(最終話).


「ちちうえ、ちちうえー!!」

 やや舌足らずの声が扉の外から聞こえてくる。ライゼスが机から顔を上げると、勢いよく私室の扉が開いた。飛び込んできた人物は、そのままライゼスに駆け寄ってくる。屈んでその体を受け止めながら、だがライゼスは複雑な顔をするのを禁じ得なかった。
「リゼル……、その格好は?」
 ぎゅっと抱き着いてくる息子は、父の表情が見えなかったのだろう。得意げに答える。
「似合いますか? 親衛隊のみなさんが、すっごくかわいいって褒めてくれたんです。だから父上に見せようと思って」
 体を離すと、彼はドレスの端をつまんで会釈した。銀色の長い髪が、垂れた頭からさらりと零れ落ちる。
「確かによく似合っていますが……、これは女の子が着る服ですよ」
 その声色は叱責するときのそれに近く、彼は――リゼルは顔を上げた。褒めてもらえるとばかり思いこんでいたのに、父の顔が明るくないのに気が付いて、大きな青い瞳が悲しそうに伏せられる。
「……ぼく、いけないことをしたんですか」
 現れたときとは一転してしょぼんとする息子を――血の繋がらない息子を、ライゼスは抱き上げた。そして陰りなく笑う。
「いいえ。とても可愛いですよ」
 大体眉間に皺を寄せている父が満面の笑顔で微笑むのを見て、リゼルの顔がたちまち綻ぶ。あちこちについたリボンを解けないように苦労するライゼスに構わず、リゼルは両腕を父の首に回した。
 丁度そのとき再び扉が開く音がした。
「セラ……」
 やや気まずそうにライゼスが呟く。呼ばれた名に、リゼルは抱きかかえられたままで身をよじった。
「ははうえ! 似合いますか?」
「……」
 リゼルが勢い込んでたずねても、セラはしばらく返事ができなかった。さっきのライゼスと同じような、寂しそうな、だがどこか悲しそうな目。母のそんな顔をおよそ今まで目にしたことがなくて、リゼルは思わず母を凝視した。慌ただしい足音が聞こえて、空いたままの扉から親衛隊の制服を纏った女性が飛び込んでくる。
「あ、兄上、姫様、申し訳ありません!! 針子が悪ふざけをしたようで……!!」
 話を聞いて城中駆けまわったのだろう。上半身を屈めて肩で息をつきながら、リーゼアが悲鳴のような声を上げる。苦笑して、セラはその肩に手を置いた。
「謝るようなことじゃない。……よく似合うよ、リゼル。おいで」
 ライゼスがリゼルを下ろすと、まるで猫のようにリゼルは母の足元までちょこちょこと駆け寄った。ドレスは足元まであるのに、踏まずに実にうまく歩いてくる。セラはしゃがむと、リゼルの長い髪を撫でた。するとリゼルは自分の髪を手に取って、少し頬を膨らませる。
「ぼくも、母上や父上と同じ、金色が良かったな」
「……リゼルの髪は世界一綺麗だよ。私は大好きだ」
 髪から手を離して、ぎゅっとセラはリゼルを抱きしめた。リーゼアがぐすりと鼻を鳴らして、ライゼスに小突かれた。
「……そうだ、もうすぐ誕生日だな。何か欲しいものはあるか、リゼル?」
 ふと思い出してセラが問うと、リゼルは体を離し、迷わず母が携えている刀を指差す。
「じゃあ、それが欲しいです」
 予想もしていなかった答えに、セラは立ち上がると刀に触れながら、目を丸くして息子を見下ろした。
「ぼく、ちゃんと剣のお稽古してます。強くなったんですよ」
「――そうか。わかった。じゃあ私から一本取ったら考えてやる」
「大人気ないですよ、セラ」
 とんでもない条件を出されてリゼルが涙目になる。だが呆れたようにライゼスが助け船を出すと、リゼルは小さな手の甲でごしごしと目をこすり、キッと目を細めてセラを見上げた。
「わかりました、じゃあ勝負してください、ははうえ」
「良い心意気だ。では練兵場で待っているぞ」
 即座にセラが答え、部屋を出ていく。その言葉に、リーゼアが目を剥いて後を追った。
「お、お待ち下さい姫様!! 暴れるのはお控え下さい、またリゼル様の時のようにお倒れになっては――!」
 バタバタと二つの足音が遠ざかる。溜息をついて、ライゼスは改めてリゼルへと向き直った。
「やるんですか? どうせ勝てませんよ」
「……ぼくのときは……母上のお体を苦しめたのですか?」
 リゼルが気にしたのは、だが、違うことだったらしい。明らかな妹の失言は後で注意することにして、ライゼスは机の上のペンを片付け、リゼルの前に膝をついた。
「違いますよ。貴方はね……むしろ母上を救ったんです。母上だけじゃない。この僕も」
 いつにない、父の真っすぐな瞳を見て、だがリゼルはまだ項垂れていた。
「でも……僕と父上は、血が繋がってないって聞きました。髪の色も目の色だった違うし、顔も似てないって」
「……そうですね。それを気にするなとは……言えませんね」
 緘口令は敷いていない。というより無駄だと思っていた。
 いざ育ってみれば彼はまったく『彼』にそっくりだし、誰が見ても一目でわかる。元より隠すつもりはなかったが、隠さなくてよかったと思う。
 だから、いずれこんな日が来るのもわかっていたことだ。
「貴方が感じることを僕が決めることはできません。ただ、これだけは覚えていて下さい。貴方は誰よりも望まれて生まれてきました。他の人にとってはどうだか知りませんが、僕には血の繋がりなんてどうでもいいことなんです。それは例え貴方自身に否定されても変わりません」
 幼いリゼルにはまだ理解しきれないだろうと思われた。だが彼なりに解釈したのだろう、ゆっくりと首を横に振る。
「否定なんてしません。僕の父上は、父上だけです。でも……」
「……言いたいことがあるなら、気にせず言えばいいんですよ。どんなことでも」
 真面目な顔をしていたライゼスが、ふっとそれを緩める。
 リゼルはそれでも少し迷っていたが、やがて意を決したように声を上げた。
「ぼくの……」
 だが、そこで途絶えてしまう。それを見て、ライゼスはふふ、と笑った。
「本当の父はどんな人だったのか、ですか?」
「……ち、父上は父上だけです! でも……どうしてわかったんですか……?」
「わかりますよ。それも、気にするなという方が無理ですよね」
 再びリゼルが項垂れる。
「だって……あまり良い話を聞かないから、悪い人だったのかなって……だとしたらぼくがやっつけなきゃいけないと思って」
 ぶっとライゼスが噴き出す。それから、腹を抱えて苦しそうに笑いだす。そんな姿はどこか子供っぽくて、リゼルはきょとんと父を見守った。ひとしきり笑ってから、ライゼスがまだ腹を押さえながら、「すみません」と謝る。
「それは困ります。だって……」
 立ち上がると、ライゼスは窓を開け、その向こうに――どこか遠くに、視線を伸ばした。
「彼がどんな人か、ですか。そうですね……、誰よりも、貴方の母上を愛していましたよ」
「父上、より……?」
 複雑そうなリゼルの声を受けて、ライゼスはそちらに顔を向けた。
「その決着を、いつかつけなきゃなりません。だから、彼を倒していいのは僕だけです。貴方にも譲れない」
「…………」
「さ、母上が待ってます。お行きなさい」
 ペコリと頭を下げて、リゼルが退室していく。部屋の扉が閉まってしばらくしてから、着替えてから行けというのを忘れていたと気が付いて、今更かと思いなおす。
 椅子に座りなおして、さっきまで見ていた書類に目を戻す。
 五年前から、アルフェスと共に新体制に向けての準備を進めてはいるが、遅々として進まない。それでも手を付けられるようになっただけマシというものだ。それもこれも、水面下で謀反を企んでいた権力者達が五年前一斉に失命、及び失踪したためである。おりしも、その名前と完全に一致するリストが発見されたことにより、元老院が暗殺を執行していたことが明るみに出る。国王がこれを咎めたために、元老院古参が政から退いた――これによって、ようやく新体制に向けて着手できるようになったのだ。
「全て父上の筋書き通り、か……」
 ペンを取っても、書類の内容が頭に入ってこない。
 リストに記されていたのは四名。その最後に記されていたのは、リルドシア王家末弟の名である。彼もその夜、明記されていた他三名と共に姿を消した。普通に考えれば元老院が消したものだと考えられる。事実、彼には他にも差し向けられた暗殺者がいることをレミィ・エルベールが証言している。
 これを有耶無耶にするためといのも多分にあって、彼の失踪後もリルドシア王家とランドエバー王家の間には友好関係が築かれている。
 なお、死体は見つかっていない。見つかったのは、血痕と刀のみである。
 率直に言って、ライゼスは彼が死んだとは思っていない。だがセラはその報告を受けて倒れた。数か月立っても容態は芳しくなく、その末に懐妊が判明した。
 怒涛のような五年間だった。だがようやく穏やかに日々は流れ始めている。
 ようやく、「いつもの毎日」と言えるような日々が訪れ始めたにも拘わらず、ライゼスは思うことがある。
「いつか――――」
 今はセラと同じく、国に縛られる身となった。だがいつか自分はそれを自ら打ち壊すだろう。
 遠く手放した日常を取り返すために。
 酷く馬鹿げた話だと我ながら思うが、それが今を生きる原動力になっているのは可笑しな話である。
 つけるつもりもない決着を言い訳にして、ライゼスは気を取り直すと書面に向かった。
 窓の外、練兵場の方からは、剣のぶつかる音が絶えずに聞こえてきていた。



 完