13.


 ノックの音がして、ティルは窓から視線を外すとカーテンを引いた。簡単に居ずまいを正して、扉へと向かう。
「よ、殿下。ちょっといい?」
 開けた扉の向こうで、ヒューバートがへらりと笑って片手を上げる。
「長居はしない。チビ姫と息子に睨まれてんだ」
 その二人の目を盗める機会を、彼はずっとうかがっていたのだろう。なるほど、と口の中だけで呟いて、ティルは彼を部屋の中に招き入れた。
「どうぞ」
「どうも」
 歓迎を伴わない出迎えと、感謝の伴わない謝辞が短く交錯する。ティルが勧める前にヒューバートは勝手にソファに腰を下ろした。その向かい側にティルが腰を下ろす。
「殿下への詮索はしない約束なんだけどね」
「……口約束が守られるなんて誰も思いやしませんよ」
「それが、思ってるんだよなあ……あの二人は」
「だとしたら、余程信頼されているんでしょうね」
 淡々と言うティルに、ヒューバートは大口を開けて笑った。
「いいね、そのパンチの利いた皮肉。息子を思い出して腹立つわ〜」
「別に皮肉のつもりじゃありませんよ。……隊長のような父親なら、退屈しなかったでしょうね」
 仲良くなれるかはともかく、と付け足して、ティルが薄く笑う。その手が喪章に触れるのを見て、さすがにヒューバートも笑みを消すと、黙祷を捧げるように目を伏せた。
「ま、仮にまだ信頼されてるんだとしたら……今度こそ嫌われるな」
 そんな仕草を見せたのは一瞬だけで、すぐに彼は目を開けて続けた。
「王の訃報は聞いたんだ」
「ええ。今朝方、……セリエラ王女から」
 覚えのない名を口にしながら、ティルはちらりとヒューバートを見上げた。彼は「そうか」とだけ答える。
 つまりそれは、第一王女『セリエラ・ルミエル・レーシェル=ランドエバー』が実在することを意味する。しかしそれでもティルには俄かに信じられなかった。
(だとしたら、知らないわけがない……)
 なぜ倒れたのか、今まで何をしていたのか、未だはっきりしない。しかし言語、礼作法、地理歴史などと言った一般常識の記憶に異常はない。自分の名、出身、生年月日もわかる。
(抜け落ちているのは恐らく、ここ数か月。……それならどうして)

 数か月前から知っていたはずの彼女のことだけ、記憶にないのか。

「……い。おい、殿下、聞いてる?」
「あ……はい。すみません、少し考え事を」
 鈍く痛む頭を押さえて、ティルは答えた。
「リルドシア王の死に関して、詳しく聞いてもいい?」
「……? それは俺が知り得ることだったんですか?」
 ティルが聞いていたのは、父王が逝去したという事実だけだった。彼はもう二年以上も臥せっていたし、容態も悪くなる一方だった。いつ死んでもおかしくなかったから、その死については深く聞かなかった。当然城のベッドの上で死んだと思っていた。
 ティルが身を乗り出すのを見て、ヒューバートは「いや」と片手で彼を押しとどめる。
「すまん、その話は一旦置こう。お前、どこまで覚えてる?」
 問われて、改めてティルは考え直してみた。やはり一定期間の記憶は定かでないのだが、割と最近、こうしてヒューバートと話をしたような気がした。
「時間がないから、単刀直入に聞くけど。オレが殿下に暗殺を依頼したのは覚えてる?」
「……なんとなく……」
 こめかみにじっとりと嫌な汗が滲む。はっきり内容を問われれば、記憶を手繰り寄せることは不可能ではなかった。脳裏に浮かぶイメージは、まるで夢のようにおぼろげではあるが、恐らく夢ではないのだろう。
「それで俺は……殺したんですか?」
 ――息苦しい。
 ほぼ無意識に襟元を緩めるティルを、ヒューバートが目を細めて見遣る。
「違う。実際にデムナント卿を暗殺したのは、レミィ・エルベールだ。お前じゃない」
「レミィ・エルベール……? でも……俺は……」
 夜を待って、卿の部屋に向かうイメージがちらつく。これは間違いなのだろうか。もっとはっきりと思い出すために集中する。
 刀を握り締めて、扉を開ける。一気に距離を詰めて刀を突き出す――だが、突き付けた相手はデムナント卿ではなかった。
(レミィ……エルベール……ボーヤの……そうだ、あのときボーヤの家で見た……)
 眼鏡をかけた、おさげの、内気そうな女性。レゼクトラ家でライゼスと話しているのを見た。だが、何故レゼクトラ邸に行ったのか思い出せない。あのとき入院していた筈だが、病院を抜け出してまで行く理由があったのだろうか。自問するごとに息苦しさが増していく。
(入院……そもそもなんで入院なんてしたんだ? 遺跡で……陛下から言われて……ブレイズベルク……)
 記憶が錯綜する。ワンシーンずつフラッシュバックしていくそれには、いつも何か大事なものが抜けている。
「……ティル。一つだけ言い訳させてくれ。お前に暗殺を頼んだのは、利用したかったわけじゃない。元老院に価値を示したかった。少なくともオレは殿下を買ってるから院のクソジジイに潰されんのは癪なんだ。お前にとっちゃ院に嫌われるのもオレに気に入られるのも不幸だろうがな」
 思考を止めて、ティルは呼吸を整えた。考えすぎて吐き気がしたし、目の前が霞んできた。このままでは昨夜の二の舞だ。あんな醜態はもう晒せない。――あんな醜態を晒したのに。彼女はずっと傍にいた。心配そうに見つめる瞳が頭をちらついて、思考を奪おうとする。それを引き戻す、ヒューバートの声。
「このままじゃこの国はいずれ腐る。オレは……オレ自身はいくら汚れようが誰に恨まれようが構わない。だがアルフェスと姫だけは……守らなきゃならないんだよ」
「……奥方では、ないんですね」
 半ば聞き流していたティルだが、ふと引っかかりを覚えて顔を上げた。率直な問いかけに、ヒューバートは気を悪くした風もなく即答する。
「生憎ね。オレとエレンは最初から決めてんのさ。アルフェスとミラ姫、二人と互いを天秤にかけるときが来たら迷わず二人を選ぶと」
「忠誠心――ですか? さすが噂に名高いランドエバーの騎士だ」
「そんな大仰なもんじゃねぇ。ただの個人的な我儘だし、理解してもらえなくてもいいのさ。オレとエレンさえ解ってりゃいい」
 その話はこれで終わりというように、ヒューバートは懐から一枚の紙片を取り出した。
「これはレミィ・エルベールの……つまり、元老院の暗殺リストだ。好きに使え。なんならオレを付け足しといてもいいぞ」
 差し出された紙片を受け取り、ティルはそこに連なる名前にさっと目を通した。そして、紙片をランプに近づける。ジッ……と音を立ててたちまち火は燃えうつり、ティルは手を離した。大理石のテーブルの上で、小さな紙片はあっという間に燃え尽きて灰になる。
「アルフェスやチビ姫にチクるなら、証拠になっただろうに」
「だから処分したんですよ。別に俺は隊長を恨んじゃいませんし、命を狙う気もない。けど名前は頭に入れましたから、好きにさせてもらいます」
「あ、そ。じゃ好きにしろよ。オレは存分に枕を高くして寝ることにするわ」
「そんな生き方してると、俺じゃなくとも誰かに寝首かかれると思いますけど」
「そーね、お互い用心しようぜ」
 ヒューバートは立ち上がると、窓の方へと歩み寄って、カーテンをつまんだ。
「この部屋、中庭がよく見えるよなぁ」
「……そうですね。誰かいましたか?」
「いやぁ、誰も。んじゃまあ、そろそろ行くかな」
 近づいてきた足音が、部屋の前で止まる。「おっ、やべーやべー」と大して困ってない声をあげて、ヒューバートが扉にかけよるが、その前に扉が開いた。どのみち遅い。
「……隊長。ここで何を?」
 セラに睨まれ、ヒューバートは両手を上げた。
「ただの見舞いだよ。な、殿下?」
「ええ」
 ティルが頷くとそれ以上はセラも追及できず、開いた扉からヒューバートが出ていく。
 テーブルの上の灰がサラサラと零れていった。